夜盗のように僕らは遊ぶ ――cero、“あののか”より
写真:佛坂和之
新しいサウンドは、新しいライフ・スタイルから生まれる。
ceroのファースト『WORLD RECORD』は、まるで、都市を探索しているようなアルバムだ。本秀康が手掛けるアート・ワークは、構図ははちみつぱいの『センチメンタル通り』を、色調は鈴木慶一とムーンライダースの『火の玉ボーイ』を思い起こさせるが、物陰に怪物が潜み、目の前をペンギンが飛び去って行く様子が描き加えられたその絵は、かつての都市へのオマージュでもなければ、今、現在の都市のスケッチでもなく、ここで問題にされているのは、あくまで、架空の都市を浮かび上がらせる想像力である。あるいは、それは、ティン・パン・アレーとヒップホップとポスト・ロックをブリコラージュしたような、主役のサウンドを象徴化したものである。
個人的な話をすれば、ceroのファースト・インプレッションは、そのシチュエーションが、某劇場の入り口で、彼等が親交の深い音楽集団・表現(Hyogen)と共に入場曲を奏でるのに偶然立ち会ったというものだったのもあって、それはバンドというよりも、ひとつのムードとして記憶に残っている。エキゾチックなファンファーレを浴びながら、笑顔で通り抜ける観客たちは、あたかも、パラレル・ワールドに吸い込まれて行くようだった。勿論、その後の単独のライヴで、cero自体のサウンドはまた違うヴェクトルを持っていることを知ったが、活動を追いかける中で、やはり、彼等を語る上ではそのムードと、それがフロウして起こるムーヴメントが重要だということも確信した。
ceroは、表現や、サポート・メンバーのMC.sirafuが主催する「とんちれこーど」、シンガー・ソングライターのあだち麗三郎等と共に緩やかなコミュニティを形成している。毎夏に写真家・鈴木竜一朗の御殿場の生家で行われる「フジサンロクフェス」、表現が四谷区民ホールにインドネシアの影絵師を招聘して、あだちが築地のプラネタリウムを借り切って、行ったイベント。印象深いものは多いが、それらの繋がりが、数多のいわゆるインディ・シーンとは趣が異なっているのは、多くがある意味でアナーキーに自閉した空間なのに対して、彼等は、従来の地域社会圏が崩壊し、散らばったかけらを、星座表を描くように――まさに、都市の中にあらたな都市を浮かび上がらせるように、ネットワークしているところだ。鈴木は「フジサンロクフェス」のテーマに“クロープン(Clopen=Close+Open)”という建築用語、つまり、“閉じながら開かれている”というテーマを掲げていたが、それは親密だが、開放的なシーンなのだ。
また、同フレーズは、ceroのサウンドにもあてはまるだろう。その響きは何処から鳴り、何処に向かおうとしているのか。バンド、初となるロング・インタヴューをお届けしよう。
「子供の頃に読んでいた、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、主人公のジョバンニに助言を与えるものとして、“セロのような声”っていうフレーズが度々、出て来たんです。今、思うと、楽器の“チェロ”のことなんでしょうけど、当時の僕には分からず、『セロって何だろう、神様の名前かな?』と勘違いしていた。皆でバンド名を付けようってなった時、ふと、『“セロ”っていいかも』って、それを思い出して。だから、綴りは、正しい“cello”じゃなくて、適当な“cero”にしたんです」。
高城晶平は、バンド・ネームの由来を、そう説明する。話を聞きながら、彼が入れてくれたばかりのコーヒーに口を付けると、ほのかな酸味と程よい暖かさが、二日酔いと寒さで固まった身体をほぐしてくれ、まるで、カフェインに溶け込んだceroの音楽が、体の中でグルーヴを奏で始めたように思えた。
本取材は、昨年末のとある夕方、高城が阿佐ヶ谷駅前で母親と経営するカフェ/バー「roji」にて行った。メンバーはこの後、吉祥寺のスタジオに入るとのことで、暖色の照明が、木調のインテリアや数多のCDと共に、楽器ケースをオレンジ色に染めていた。彼等は始めてのインタヴューとは言え、場所がホームということもあって、至ってリラックスしているように見えた。今回のアルバムには入らなかったが、ライヴでお馴染みの楽曲に“武蔵野クルーズ・エキゾチカ”というタイトルが付けられているように、ceroの4人は皆、このエリアの出身なのだ。
「僕(高城晶平。パートはヴォーカル他。以下、発言はT)とハシモっちゃん(橋本翼。パートはギター他。以下、発言はH)が神代高校、アラピー(荒内佑。パートはキーボード他。以下、発言はA)とヤナ(柳智之。パートはドラム。以下、発言はY)が三鷹高校で、全員、84年、85年生まれの同学年ですね」(T)。彼等が出会ったのは、高校一年生の時に高城と橋本が組んでいた、コーヒー・フィルターというフリッパーズ・ギター・フォロワーのバンドを、荒内が観たことがきっかけだったという。「たまたま、ライヴに行って。でも、別に良くなくて(笑)。ただ、周りに音楽好きがあまりいなかったので、友達になりたいなと思って、番号を人伝に訊いて、電話してみたんです」(A)。「いきなり知らない番号からかかって来て、適当に話してたら、“今からCD持って、遊びに来なよ”ってことになって、やべぇ、舐められちゃいけねぇって(笑)、(細野晴臣の)『HOSONO HOUSE』とか持って行った気がする。すぐに仲良くなって、いつも、喫茶店で音楽の話ばかりしてましたね」(T)。ちなみに、荒内と柳が組んでいたバンドの名前は吉祥寺に実在する店名から取った珈琲家族。ceroにとってカフェとコーヒーは重要なアイテムのようだ。そんな交流の中で、4人は次第に引き付けられていく。
彼等に、高校時代に好きだった音楽について訊いていると、フリッパーズ・ギターという固有名詞が頻繁に登場する。4人が高校に入学したのは2000年。同バンドの解散から既に10年以上が経っていた。「フリッパーズは好きでしたね。確かにリアルタイムじゃないので、(バックグラウンドとなる時代の)ムードは知らないですけど、音楽そのものが良かった。ちょっと、年上の人のものを背伸びして聴く感じはあったかもしれない。それで、昔の雑誌を読んでみると、彼等がティン・パン・アレーとかに言及しているから、チェックしてみたり。そういえば、フリッパーズ自体はハシモっちゃんに教えてもらったんだ」(T)。「僕は姉がいるんですけど、10個上で、ちょうどフリッパーズ世代なんです。音楽は姉ちゃんに教えてもらったものが多いですね」(H)。
言わば、フリッパーズは彼等にとって兄のような存在だった。様々なジャンルが入り混じった楽曲にしても、複数の楽器を持ち替えながらそれを再現していくライヴにしても、ceroの音楽性が、同世代に比べて圧倒的に豊かなのは、上の世代から多くの知識を継承しているからだろう。「僕の場合は、亡くなった父さんが音楽好きだったんですよ。だから、もともと、家にレコードがたくさんあって、ティン・パンなんかも、家を漁って、あぁ、これかって聴く感じ」(T)。そして、その知識の継承はカタログ的なもののみならず、演奏技術にも及ぶ。「おばあちゃんが音楽の先生だったんで、子供の頃はクラシックを聴いてましたし、家にピアノがあったんで、それで遊んでいるうちに弾けるようになりましたね」(A)。「ドラムを始めたのは、近所にあったサレジオ教会っていうところで。別にうちはカトリックではないんですけど、ドラムをやってみたいなって思った時に、そこで音楽を教えてくれるって知って、通うようになりました。毎週、日曜にミサで叩いてましたね。厳しかったですよ。『もっとちゃんとやりなさい、神様は見てるんですよ』とか怒られたり(笑)」(Y)。「いま、ヤナの話を聞いていて吃驚したんだけど、僕がギターを教えてもらったのもそこなんですよ」(H)。「えー、知らずにセッションしてたらヤバいね(笑)。運命だ!」(T)。
世代が断絶し、コミュニティが機能しなくなったこの国では、なかなか、珍しいケースだと言えるだろう。しかし、ここで重要なのは、彼等が恩恵を受け止めつつも、その環境に甘んじず、オリジナリティを求めたことである。「家にレコードがたくさんあったことを、皆からは羨ましいって言われますけど、僕にとってはむしろジレンマでしたけどね。探す喜びが奪われているというか、あらかじめ揃っていることの絶望というか、父さんのコレクションを掘っていて、『これもあんのかよ……』みたいな。自分で探して聴くのと違うじゃないですか、入って来かたが。だから、自分のものになるのは遅かったと思いますよ。『HOSONO HOUSE』にしても、聴いたのは早かったけど、ふむふむ、なるほど……って、頭の中のアーカイヴに入れてただけ。それが本当に良いと感じられて、血肉化したのは最近のことです」(T)。そして、4人が大学に進学した03年、何処からともなく響いて来る、聴いたことのない音=“セロのような声”に導かれるように、徐々にバンド:ceroが立ち上がり始める。「そんな感じで、高校の時にやってたバンドは真似ばっかりだったから、それを一旦、リセットして、自分たちの音楽をつくろうっていうことになったんです」(T)。
写真:佛坂和之
03年、ceroは結成された。「皆、別々に進学して……例えば、僕は日芸で、そこでもリュウちゃん(カメラマンの鈴木竜一朗)とか、後に繋がる友達はたくさん出来たんですけど、やっぱり、音楽の趣味が合うのはこの4人、という感じだったんですよね」(T)。ただし、当初のメンバーは高城/荒内/柳の3人。橋本は、現在まで続くソロ・ユニット=ジオラマシーンの前身となるBig West Good Threeとして活動していたため、不参加となった。「僕とハシモっちゃんで、コーヒー・フィルターの後、cueっていう、同じようにフリッパーズ・フォロワーのバンドをやった後、ハシモっちゃんはBWGTを組んだ。それは、既にジオラマシーンに通じる音楽性でした」(T)「高校生のライヴ・イベントで、ほとんどがパンク・バンドなのに、ひと組だけホーン・セクションがいて吃驚しましたもん。それも、スカコアじゃなくてソフト・ロックをやるっていう」(A)「いや、高一の時、四ヶ月だけ吹奏学部に入ってクラリネットをやってたんで、周りに管が出来る友達が多かったんですよ」(H)「ハシモっちゃんは筋が通ってる。それに比べて、ceroはあっち行ったりこっち行ったり、ウロウロしてる感じ」(T)。
そして、バンドが実質的に始動するのは、しばらく空いて、翌年のことである。「結成はしたものの、それぞれの新生活が忙しくて、ほとんど活動していなかったんです。それで、1年間、音楽を休んで、色々と吸収して、いざ再開ってなった時は、『どうせだったら新しいことやりたいね』って、自然と、所謂ポップ・ソングじゃない……3ピースのアンサンブルじゃないところを目指していましたね。とにかく闇雲に、新しいと思うことを試していた感じ」(T)。ちなみに、橋本のジオラマシーンを始め、ソロ・ワークにも積極的なceroだが、その活動は音楽以外にも及び、例えば、柳は、村上龍『歌うクジラ』の表紙を手掛ける等、新進気鋭のイラストレーターとして注目されている。初期のceroにしても、如何にも"アート・スクール・バンド"といった趣を持っていたようで、そのクロープンな公開実験の場は、とある若い芸術家達が集うイベントだった。「僕の中学生時代からの友達で、トム(徳山知永)っていう、昔からセンスが良い奴がいて。彼はICU(国際基督教大学付属高校)に入って、(その後、バンド=表現を組むことになる古川)麦ちゃんとか、高校で出会った面白い人達を色々と紹介してくれてたんですけど、そいつが、吉祥寺の<bar drop>で<Home & Away>っていうイベントを始めたんです。そこに、ほぼ毎回出るようになったのが、ceroの本格的なスタート」(T)「確か、イベント自体は03年から始めて、最初は高城君とヤナの2人だったのが、04年からceroで出るようになったんじゃなかったかな」(A)「ジオラマシーンも出てましたね。<drop>って小さいハコなのに、ホーン・セクションも呼んで、無理矢理、大人数で。逆に弾き語りもやったり。コーラスをMTRに入れて、"宅録をそのまま持って来ました"みたいな」(H)「<Home & Away>はceroの始まりでもあったけど、そこで知り合った人たちとセッションをするのが楽しかったんですよね。(古川麦の東京藝術大学の同級生で、表現の発起人のひとりである佐藤)公哉君と初めて話したのもそこだし。その頃、彼はヴォイス・パフォーマンスをやってた。後は、オレとヤナと麦ちゃんでポスターズ、公哉君と麦ちゃんでDOGEYってバンドを組んだり、竜ちゃんが個展を開いたり……そういう入り乱れる感じは、その頃、もうあったかもしれない。ただ、今とちょっと違うのは、若かったんで、技術的には未熟ですけど、"やってやろうぜ"っていう野心的な雰囲気が漂っていたこと」(T)。
ファースト・アルバム『WORLD RECORD』に収録されているナンバーで、唯一、<Home & Away>期からレパートリーにしていたのは"outdoors"だという。同曲の蒼さと疾走感から、初期のceroの姿が想像出来るというものだ。「あそこには、当時の雰囲気がちらっと残っているかもしれませんね。他はインストが多かったです。あの頃の言葉で言うとポスト・ロックになるのかな? まぁ、楽曲としてどうこうというよりも、アティチュードはそうだったという感じですね」(T)。バンドの背中を押したのみならず、その後のcero周辺の活動の指針となった<Home & Away>は、主催の徳山のイタリア留学が決まったため、05年に終了することとなる。ちなみに、彼は今、池田亮司のテクニカル・チームに参加しながら、メディア・アーティストとして活躍している。「トムは常にターミナルになるタイプの奴で、彼のおかげで色んな出会いがあった。イベントが終わったのは残念でしたけど、そこで学んだことを生かして、『自分達でやろう』というヴェクトルに向かって行きましたね。まずは、吉祥寺<曼荼羅>とかで、普通にノルマを払いながら出たり、オープンしたばかりの江ノ島<OPPA-LA>で、ジオラマシーンとやったり。そのぐらいから、ハシモっちゃんにはサポートで参加してもらうようになった」(T)。
05年12月12日、<曼荼羅>に出演した際の録音は『ある日のライヴ1』として音源化されている。ディスコグラフィーのトップにあたり、初期の代表作"目覚めてすぐ"や"バニシングマインド"が収録されたそのDVD-Rは、言わば"所謂ポップ・ソングじゃないところ"を経由して、もう一度、ポップ・ソングに立ち返った作品集である。「それまで、実験的にスリー・ピースでやってたのが、ハシモっちゃんがサポートで入ってアレンジの幅が広がったのと、色んなイベントに出て仲間以外の視線を意識し出した中で、また、ポップ・ソングがやりたくなって、それまでの方向を反転させ、アンサンブルを演奏する喜びに傾倒していったんです」(T)。また、前述した楽曲にしてもそうだし、同作が初出で、『WORLD RECORD』でも重要なピースとなっている"大停電の夜に"における、"普通の会話を愛している"というセンテンスの節回しに象徴されるように、この頃のceroからはフィッシュマンズの影響が聴き取れる。「確かに、アラピーと知り合って、喫茶店で音楽話をしていた際、共通項として盛り上がったひとつがフィッシュマンズでした」(T)「僕は高校の時、いちばん好きだったバンドかもしれない」(A)「ちょうどceroを始めた頃は、Polarisとか、フィッシュマンズ以降のバンドがポツポツと出来た時期で、自分たちとしても影響を消化したいという思いがありましたね」。84年生まれのceroのメンバー達は、佐藤伸治の逝去と入れ替わりで音楽を始めた世代だが、同じ東京の街並を舞台にしていても、そこを、晩年の佐藤が糸の切れた凧のごとく彷徨っていたとしたら、『WORLD RECORD』はゲームでもプレイするように遊び回っていて、それが、筆者には、フィッシュマンズの批判的展開に思えてならないのだ。
06年、橋本が正式加入。時を同じくして表現も本格的に活動を開始、彼等は田端に借りたカラオケ・ボックス跡地の地下室をスタジオ兼イベント・スペースに改装、そこがシーンの新たな拠点となった。「あそこでやってたイベントに俺こん(OWKMJ/俺はこんなもんじゃない)が出てて、そこであだち(麗三郎/元OWKMJ)君に会ったんだ」(A)「ceroも出てたんですけど、妙にアジトっぽいっていうか、地下室に裸電球が一個ぶら下がっていて、それに虫が誘き寄せられるように、何処からともなく若者達が集まって来る様子は面白かったな。空調もなかったんで、皆で汗だくでライヴをやって。あれは何か"始まってる感"、あったよね」(T)。
写真:佛坂和之
その頃、病床に伏していた高城の父親が逝去してしまう。「恵比寿の<みるく>でライヴをやってた頃でしたね。何回かライヴは観に来てましたけど、<drop>時代の実験的な時期でしたから。その後は病気になっちゃったんで、音源だけは渡して、“凄い良い”って言ってたものの……まだまだ不完全なものでしたし、本当はどう思っていたか。でも、応援してくれていたのは確かです。病室から自分の好きなレコードを送ってくれたり。ある日、いきなり、手紙も何も添えずに、(Captain Beefheart & His Magic Bandの)『Trout Mask Replica』が届いて吃驚したこともありました(笑)。他にはカンタベリー・ロックとかも好きで、プログレッシヴ・ロックがバンバン。多分、遠い場所から教育しようとしてたんでしょうね。“こういうのも聴いとけよ”って。そういうメッセージは何となく感じてました。それで、僕は“今度はこういうのをつくった”ってデモ・テープを送り返して。そのやり取りが楽しかった」(T)。そして、親として、音楽愛好家の先輩として、ceroをサポートして来た氏からの最後の贈り物が、ひとつの出会いだった。「父さんは、僕らがつくったデモを病室から知り合いに送りまくってたみたいなんです。“何とかならんもんか”って感じで。大学も卒業だっていうのに就職する気配もなかったし、心配だったんでしょう。そうしたら、そのうちの1枚が廻り廻ってムーンライダーズの鈴木慶一さんの手元に渡った」(T)。それは、実の父が、自らの役割を偉大な音楽家に託したということだったのかもしれない。
“素晴らしいヤング・チェンバー・サウンドだ”という、鈴木慶一による『WORLD RECORD』評(10年12月15日のツイートより)は、実に的確にこのバンドとこのアルバムの特徴を言い表している。しかし、最初のセッションでレコーディングされた“outdoors”がそこに収録されていることからも分かるように、彼こそがそのサウンドをインスパイアしたのだ。「慶一さんに聴いてもらったデモは、バンドを始めてすぐぐらいにつくった拙いもので、それを御自身が若い頃と照らし合わせてくれたのかは分からないですけど、“良いね”って言って下さって」(T)「“ポスト・ポスト・ロック”とも言ってたよね」(H)「確かにそういう時期だった」(A)。2007年、ceroは鈴木慶一と共に平和島のスタジオ<サウンドクルー>に入る。「慶一さんとは、とあるマネージメントの人を通して何回かやり取りしてたんですけど、その人が、“慶一さんをプロデューサーとして、曲を録り直してみたらどうか”って提案してくれたんです。そうしたら、慶一さんが“いいよ、やるよ”って。それで、ゾロゾロと出向いて、“目覚めてすぐ”と“outdoors”を録音した。慶一さんから教わったことは……“レコーディングの時は出前でラーメンを取るな。伸びるから”とか?(笑)」(T)「なるほど……と思った(笑)」(H)「というのも、慶一さんは“プロデューサー”って感じでその場にはいましたけど、“ここ、こうしろ!”みたいなことは言わずに、逆に“どうしたい?”って優しく訊いてくれて。だから、僕らが好き勝手にやった感じなのに、出来上がったものを聴くと慶一さんの作品になってるっていう、凄い不思議な体験だったよね、あれは。“わっ、ムーンライダーズっぽい!”っていう。その2曲を入れたのが、2枚目のデモCD-R」(T)。それは、彼等が先達に導かれて、“レコーディング”という、愉しくもあり恐ろしくもある、出口のない迷路に踏み込んだ瞬間だった。「初めての本格的なスタジオ・ワークだったんですけど、僕はその頃、ライヴが好きじゃなかったのもあって、もう、楽しくて仕方がなかった。<サウンド・クルー>は機材のレンタルもやってるところなんで、色んな楽器があったし。スティール・パンとか」(H)「確かに、ライヴっていう制約から解かれて、“本当は色んな楽器を使ってみたいんだけどな”っていう思いを、大人の人たちの現場で発散させてもらった感じだったよね。“outdoors”の途中で、いきなり、パーカッションがボンボコボンボコ入ってくるのは、レンタル用に置いてあった太鼓を根刮ぎ借りて来て、皆で叩きまくった。“ここでこんなことしたいんです!”って慶一さんに言ったら、ニコニコしながら“いいよー”みたいな。アルバムに、“outdoors”のその時のテイクをそのまま入れたのは、あそこから始まった感じがあるからですね。これを自分たちだけで出来たら良いなって思って、その後の3年間くらいは頑張ってました」(T)。
ひょっとしたら、そのまま行けば、ceroは“ムーン・ライダーズの子供達”としてデビューしていたかもしれない。しかし、彼等は親の顔色を伺う優等生ではなく、仲間と秘密基地に立て篭っては作戦を企てる悪戯っ子だった。「それから、慶一さん伝いでコンピの仕事とかを頂いて、ちょくちょく、スタジオに入ることになるんですけど、エンジニアの方と一緒にやると、環境が良いものの、時間の制約があったり、コミュニケーションが上手く取れなかったり、どうしても好きなようには出来なくて。それが、“やっぱり、自分達でやろう!”っていう引き金にはなりましたね」(A)。ceroは鈴木慶一との出会いをきっかけに、『細野晴臣―STARANGE SONG BOOK』(2008年/avex)、『にほんのうた 第ニ集』(2008年/commons)、『桜コンピ。』(2009年/UNIVERSAL)と、メジャー・レーベルのコンピレーションに次々と参加して行く。傍から見れば順調なステップ・アップだったかもしれないが、彼等は階段半ばで踵を返してしまったのだ。「マネージメントの人が持って行きたい方向と、僕らが行きたい方向がちょっと違ったんですよね」(A)「デモをメジャーにプレゼンしてくれてもいて、ある程度はレスポンスがあったらしいものの、僕らがスルーしちゃって。それで、ようやく解放された……っていうと語弊がありますけど、対象を考えないで作品がつくれるようになった。ただ、色んな機会をつくって下さった慶一さんには本当に感謝しています。アルバムが完成した時も、真っ先に聴いて頂いた」(T)。そして、彼等は自分自身と仲間のためにアルバムのレコーディングを始める。その事は、完成した『WORLD RECORD』を聴くにつけ、ベストな選択だったとしか思えないのだ。鈴木慶一は同作を聴いて、「今までの集大成だね」と言ったという(ZINE「読むWORLD RECORD」より)。それは音楽的な側面だけでなく、そこに、彼等の美学や生活が集約されていることを意味するだろう。
この、一枚のレコードを巡る小旅行も、そろそろ、終盤に近付いてきたが、ここで、少し遠回りしよう。『WORLD RECORD』というタイトルの通り、本作を豊かにしているのは、彼等がヴァイナルのように、目的地に向かって、真っ直ぐではなく、円を描きながら進み、そこで、針先が様々な音を拾うかのごとく、仲間と出会ってきた経験だからだ。
2008年、ceroは表現と並ぶ盟友(達)、“片想い”と邂逅を果たしている。「それまで、<Home & Away>とか表現のスタジオとか、ひとが集まる場はあったけど、その都度、解散するっていうか、皆、海上に漂ってて、時々、出会うみたいな感じだったんですよ。変につるむよりも、その方が良いと思ってたし。それが、ようやく岸辺に辿り着いたなと思ったのが片想いと会った時ですね」(T)。片想いの詳細な演奏履歴が記されたHPの<Play list>というコーナーを参照したところ、それは暮れも押し迫った12月13日のことだった。「下北沢の<mona records>で企画されたイベントに呼ばれて、“どうせ、いつもの感じだろう”って行ったら……その頃、ceroは所謂<mona>の周辺でも、高円寺の<円盤>の周辺でもなかったんで……あ、でも、三輪二郎がいたんだ……“今日は二郎がいていいなぁ、ん、この片想いっていうのは何だろう? 青春パンク系かな?”みたいな。そうしたら、ライヴを観て、吃驚して。僕らって普段は感じ悪くて、ライヴ終わったらすぐ帰っちゃうんですけど、その時は、打ち上げにがっつり参加したんですよね。そこで、MC.sirafuに酔っぱらいながら“すげー最高でした”って言った覚えがある」(T)。今、世界に良いバンドはたくさんあるだろう。しかし、良いシーンは少ない。それは、孤独な時代の反映でもある。ceroに世界を変える力があるとしたら、彼等が、人と人の繋がりにこそ、意味を見出しているからだ。「多分、片想いも孤独だったと思うんです。いや、憶測ですよ。勿論、<とんちれこーど>はあったけど、小さい惑星みたいな。それが、別の惑星と交信が取れた瞬間があの日だったんじゃないか。僕達にとってもね。だから、嬉しかった。今、自分の周りにある“シーン”のようなものっていうか、“音楽をやっている友達がいる”みたいな感覚って、やっぱり、片想いとの出会いが大きいですね」(T)。
今、手元に『バックベアード・マガジン特別号―特集「東京の演奏」』(以下、『東演』)と題された、ブックレット付きの2枚組CD-Rがある。『WORLD RECORD』にも“(I found it)Back Beard”というインストゥルメンタルが収められているが、「『バックベアード〜』は僕が日芸の仲間達とやっていたCD付きZINEで、この曲はアラピーがテーマ・ソングとしてつくってくれたんです。この辺の友達関係を音楽にしたっていうか」(T)。そして、『東演』はそれをコンピレーションという形で展開したものである。発行日は09年6月11日。参加アーティストはcero、片想い、あだち麗三郎、三輪二郎、ファンタスタス、NRQ等。収録トラックは、ライヴ・ハウス、スタジオ、公共施設、自宅等、様々な場所における演奏のエア録りで、その場所、その時々のアンビエンスをたっぷりと吸い込んだ、09年春の東京を舞台にしたフィールド・レコーディング集という趣もある。「あれ(『東演』)が、この辺の集まりが形になった最初かもしれませんね」(T)。
“東京の演奏”は、もともと、糸賀こず恵が主催するイベントのタイトル(以下、コンピと区別して<東演>)で、同作のブックレットに掲載された相関図に、糸賀は“「東京の演奏」というのは地方出身者である私が東京で出会った演奏、を指すのです”と記している。「片想いの、少し前にこっちゃん(糸賀)との出会いがあって。彼女は、この店(<roji>)のお客さんだったんですよ。普通にOL勤めをしてた頃に、仕事が終わって、疲れた顔で呑みに来る存在で、いつだったか、ちらっと話したら、“俺こんが好きで”“えー、僕らも俺こんとかとやってるんですよ!”みたいに盛り上がって、ライヴを観に来てくれるようになった。そうしたら、しばらくして“イベントをやろうと思う”って言い出して、始めたのが<東演>(第一回目は08年10月23日)。それで、その年末に片想いと知り合って、“こっちゃん、片想い絶対好きだから観に行った方がいいよ!”って誘った。そこからまた、小さい惑星がポンポンポンと繋がって行く感じはありましたね」(T)。片想いの<Play list>には、<東演>に始めて出演した09年6月11日付けで、こう記されている。――“東京にはこんなにも多様なポップ・ミュージックのかたちがあるのか”!
ちなみに、『東演』に収録された高城晶平とジオラマシーンのトラックは、09年4月12日、阿佐ヶ谷<roji> を舞台にした、あだちやMC.sirafu達とのセッションである。「06年に<roji>を始めたんですけど、こういう場が出来たおかげで集まりやすくなったというのはある。しらちゃん(MC.sirafu)も<mona>の次の日、さっそく来てくれたんですよ」(T)。これまで、繰り返し語って来たように、ceroにとって音楽が鳴る“場”はとても重要だ。「<roji>はやっとホームが出来たっていう感じだったよね。その少し前から、ノルマを払ってライヴ・ハウスでやるのが嫌になって、出るのを全部止めて、あだち君とかと四谷の区民センターの音楽室を借りたりしてたんですよ。MC.sirafuにしても、“場”をつくるということに凄く意識的で、音楽の良さは勿論、そういう感覚を持っている人達と一緒にやりたいというのはあります」(A)。では、その場所から、音楽へフィード・バックされるものもあるのだろうか?「ceroって、場所によってアレンジをすぐ変えちゃう。飽きっぽいっていうのもあるんですけど、<円盤>で本番前にいきなり、“最近、苦情が来るからでかい音が出せない”って言われた時には、パッと静かな感じにしたりとか、そういうことが出来るのは、色んな場所でやって来たのと、それを楽しんで来たからなんじゃないかな。良くも悪くもなんですけど、カチっとしてない、グニャっとしたところは残しています」(T)。そして、それは、編成にしても同様だ。「その日によって、しらちゃんとかあだち君が入ったり。“バンドよりチーム”って、僕は昔から言ってます。バンドっていう孤独な形ではなく、もっと大きな……今のブルックリンじゃないけど、色んなバンドがウジャウジャやってる、そういう雰囲気の方が単純に楽しいんじゃないかなって」(T)「結果、そうなってるだけだけどね。目指してる訳じゃない。どうやら、自分達の周りはシーンと思われてるらしいっていうのも言われて始めて気付きましたからね」(A)。「そうだね、意図的じゃない。今の繋がりの“種”も、バンド結成以前まで遡るもんね。二胡の吉田(悠樹/NRQ、前野健太とDAVID BOWIEたち、他)君なんて、高校の1個上の先輩だし。尾林(星/ファンタスタス)君だってアラピーの高校の2個上の先輩だし。その種が“場”に蒔かれたことによって花が咲いたっていうか」。『東演』の、前述した、糸賀による“地方出身者である私が東京で出会った演奏、を指す”という相関図には、しかし、以下のような注釈が加えられている。“*土地の距離感や位置が相当狂っていたり、東京ではない場所も含まれていますが、これが「東京の演奏」なのです”と。やはり、この原稿の冒頭で書いた通り、ここでいう“東京”とは、東京という都市そのものというよりも、至るところに散らばった“場”で連鎖的に紡がれていくコミュニケーションを指しているのだ。そして、それはネット以降のリアリティでもある。
やがて、<東演>や片想いとの交流と平行して――いや、その交流に巻き込まれるようにして、と書いた方が正確だろうか――ceroは、いよいよ、ファースト・アルバムのレコーディングを開始する。「スタートは2年前(09年)になるのかな? 6月ぐらいだったような」(A)「最低限の機材を自分達で買って、“やってみようか”って。ちょっと前にあったメジャーの話も立ち消え、レーベルとか何も決まっていない状態でした。でも、その当時の音を残したかったんですよね。さっきも言ったように、ceroってライヴ毎にアレンジを変えたりするから、そろそろ、記録しておきたいなと」(H)「あと、“オレたちはこういうことをしたいんだ”って口で言うより、物として提示した方が分かりやすいかなって」(T)「バンドを結成して結構経つのにまとまったものがなかったし、“ここら辺で一旦清算して、新しいことをやりたいね”って話、したよね。それが、こんなに長くかかるとは思わなかった。最初は表現と一緒にレコ発、やるつもりだったから、丸1年遅れたのか(笑)」(A)。
実際、レコーディングは長期に渡り、録音も様々な場所で行われた。ブックレットのクレジットには“Recorded at サウンドクルースタジオ/吉祥寺のスタジオいろいろ/杉並区区民センター音楽室/藤野芸術の家/阿佐ヶ谷Roji/旧小島小学校/MC.sirafuスタジオ/各自宅”とあるが、その素材は基本的に橋本の自宅でミックスされた。09年の秋頃に聴かせてもらったデモの時点で楽曲もアレンジもほぼ固まっていたものの、そこから飛躍的に向上したのがミックスの技術とセンスである。「流れとしては、まず、バンドで集まってベースとなる音を録って、それを各自、家に持ち帰って、バンバン、多重録音して、最後、はしもっちゃんがまとめるという感じでしたね」(T)「例えば、ドラムの録り方なんかも手探りだったんですよ。マイクの位置とか、毎回違って。だから、音としては統一されてないんですけど、その分、面白い素材になって、それを橋本君がミックスで上手くまとめてくれた感じですね」(Y)「ポップ・ガードがないから靴下をマイクに被せたり、“こんなんでいいのかな?”と思いつつ、試行錯誤するのが楽しかった。以前と違って、スタジオの時間を気にしないで幾らでも出来るし。その分、素材がどんどん増えて、はしもっちゃんは大変だったと思う」(T)。言わば、各場所で録られた『東演』のようなドキュメント=世界の断片が、しだいに混ざり合いながら、フィクション=異世界へと生まれ変わっていったのだ。「だから、慶一さんが“チェンバー・サウンド”って言ってくれたのは、ほんとにそうで、このアルバムはほぼ宅録だよね」(H)
様々な音がアルバムというひとつの世界にまとまったことは、また、ceroがひとつのバンドとして成熟したことも意味した。勿論、ソロ・アーティストの集まりであり、その輪が外部へと緩く広がっている彼等は、互いを拘束するようなことはしないが。「ceroは誰がリーダー・シップを取るとか、ほんとないですねー。好き勝手にやって、あとでどうしようって困る感じ」(T)「末っ子体質」(H)「ライヴのアレンジも主題だけがあって、ファジーな部分が多いんで、CDでひとつの形にまとめなきゃいけないのが辛かったですね。皆、意見が違って」(A)「良くも悪くも、それぞれのcero像がバラバラなんですよね。だから、おとぎ話とか見てて、うらやましくなる。一体感が凄いから」(T)「でも、そのまとまらなさっていうか、デッサンで輪郭線をいっぱい描いて、それがぼんやりとひとつの形に見えるっていうのがceroっぽいけどね」(Y)「うん、“ceroっぽい”って言葉を、皆、よく使うんですけど、多分、バラバラの事を言っていて(笑)。ただ、凝り固まってる訳じゃないから、どこかしらで歩み寄って、それで“cero”が出来るんでしょうね」(T)。
そこで浮上したのが、“エキゾチカ”というテーマだった。そして、『銀河鉄道の夜』から引用した、“何処からともなく響いて来る、聴いたことのない音=セロのような声”の正体を、“c=contemporary,e=exotica,r=rock,o=orchestra”というアクロスティックは無意識的に暴いたのだ。「ある日、ふと、“コンテンポラリー・エキゾチカ・ロック・オーケストラ”って語呂が良いなって、後付けで思い付いたんですよね。でも、そこから、やりたいことが明確になったような気がする」(T)。では、ceroにとって、“エキゾチカ”は何を意味するのか。例えば、細野晴臣にとっては“ここではないどこか”という言葉と同義だったろう。彼が古き良きアメリカに憧れたのも、アンビエントに向かったのも、それが、トリップ・サウンドだったからだ。そういえば、高城が荒内と初めて会う時に手にしていたのも『HOSONO HOUSE』だった。「意味はふたつあって、ひとつはそのままトロピカルなサウンド。もうひとつは、“エキゾチカ”の語源を調べてみたら、exdosやexitみたいな単語の頭に付いてる、ラテン語で“〜から外へ”を意味する前置詞を名詞化したものだと知って、そういうところから、広義でエキゾを捉えています」(A)「音源だけ聴いたら、“そんなエキゾな感じとかモンドな感じないよ”って思われるかもしれないけど、そういう、外へ向かって行くアティテュードっていうか……まぁ、それも内弁慶だったりするんですけど……何せ、アルバムのタイトルが『WORLD RECORD』ってでっかく出てるのに、最後の曲が“小旅行”なんで(笑)」(T)。
50年代後半にアメリカでヒットしたエキゾティック・ミュージックの消費傾向として、当時、普及し始めた高性能のステレオ・セットで、実際に旅行に行くには貯金が足りない独身男性が異国情緒に浸るというものがあった。やがて、エキゾでは飽き足らず、ブームはスペース・ミュージックへと波及していく。それから50年後の日本、ステレオさえ買えない若者達は、しかし、iTunesから流れてくる『WORLD RECORD』で夢を見て、しかも、iPodに落として外へ出れば、目の前の街並さえ変って行くのだ。「マーティン・デニーみたいなエキゾの父と言われている人たちって、結局、アメリカ人な訳で、要するに南国音楽のレプリカですよね。僕にとって、そういうつくりものっぽさって凄く重要で、自分の書く詞もパラレル・ワールドっていうか、愛がどうだこうだっていうよりは、RPGの地図をつくって行くみたいな書き方が好きで。『WORLD RECORD』にも、テントとか汽車とか、何回か出てくるキーワードがあるんですけど、それは、箱庭にミニチュアを配置してる感覚なんです。でも、“ワールドレコード”で“いつかあなたもぼくも気づくだろう/とてつもなく巨大なレコードの上で”って歌っている通り、ふと上を見上げたら、いつの間にか、自分もその箱庭に配置されてるみたいな」(T)「旅行に出たつもりだったけど、結局、地元にいる……でも、音楽の力で確かに遠くまで行っていた、みたいな感じじゃないですかね」(H)。いや、このアルバムの影響は決して想像の世界に留まらず、表現や片想いとの出会いのように、ceroとまだ見ぬ他者を引き合わせることだろう。「……アルバム、完成した後も聴いてる?」(T)「恐くて聴けない……普通に聴いてる分には気付かないんだろうけど、細かい部分が気になっちゃって」(H)「オレは結構、聴いてる。その度にいつも思うのが……小島小学校っていう廃校の教室に、表現の(権頭)真由ちゃんが動く円形のステージをつくって、そこで一ヶ月間ぐらい色んな人とコラボレーションをやった際、それが終わった後に、ceroと表現と、あと、ふたつのバンドを好きな人達が集まって、皆で合唱を録音したんです。その時のテイクは、表現のアルバム(『旅人たちの祝日』)でも使われているし、『WORLD RECORD』だと“あののか”や“(I found it)Back Beard”、“小旅行”でも使っていて、それを聴くと、“今回のアルバムはこれを録るためにつくったんだなぁ”って、凄い感動するんです」(T)。そう、これまで人々を結び付けてきた、“何処からともなく響いて来る、聴いたことのない音=セロのような声”を、今、鳴らしているのは他でもない、彼等自身なのだ。
コーヒーを一杯飲む間に、アルバムが一周する間に、本作の素晴らしさについて語れたらと思っていたが、随分と長居してしまった。取材から半年以上が経ち、『WORLD RECORD』は筆者が過剰な言葉を費やすまでもなく、正統な評価を得たように思う。しかし、あの日を振り返ると、あの平和さが、まるで高城の言うパラレル・ワールドのように感じられるではないか。言うまでもなく、私達は今、3.11以降の世界に生きている。ただ、その中で、ceroの音楽は以前とは違った響きを持つようになった。それは、3月26日の京都、翌27日の名古屋と始まったリリースに伴うツアーで、それまでは愛すべき危うさのあったライヴ・パフォーマンスが、見違えるように逞しくなったというだけではない。例えば、4月2日、余震に怯えながら街頭の消えた暗い街並を通り過ぎ、渋谷<O-nest>で聴いた“大停電の夜に”が、今までになく身に迫ってきたのには驚かされた。また、4月15日のライヴを最後に、柳が画家業に専念するため、バンドを離れることになったのだが、その日、高城が涙ぐみながら歌った、オリジナル・メンバーでは最後となる“大停電の夜に”の“手を振る友達 淋しそう”というラインには普遍性があったと、<wesred-time>から帰って来て語った妻の言葉が印象に残っている。確かに、あの日を境に、ceroの音楽は強度を増したのだ。それは、彼等がこれまでやってきたこと――“大停電の夜に”にから、さらに引用するなら、“普通の会話を愛”することの大切さ――が、今、改めて問われているということでもある。世界の終わりに怯える人々に、『WORLD RECORD』は新しい世界を立ち上げるヒントをそっと耳打ちしてくれるだろう。1杯の美味しいコーヒーのように。
(おわり)
写真:三浦知也
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