Vol.02

―さっきリファレンスとして名前が上がったジョー・ヘンリーにしても、元々高城さんの中にあるであろうルーツロック志向的なものって、もしかしたら近年のceroしか知らない人からすると意外だったりもするかもしれないですよね。

髙城:たしかにそうかも。自分の中では一貫した興味として常にあるものなんですけどね。僕にとってジョー・ヘンリーの存在が大きかったのは、やっぱり父親世代の人達との音楽の会話の共通の入口になったっていたということがあると思います。その当時からジョー・ヘンリーって色々なベテラン・アーティストのアルバムをプロデュースしているじゃないですか。アラン・トゥーサンとか、ランブリン・ジャック・エリオットとか……。そういう作品を通して自分の父親と音楽の話で盛り上がれたっていうのがとても嬉しかった。僕はそんなに熱心に古い音楽を掘りまくるタイプじゃないんですけど、昔の音楽と今の音楽が接続されるっていうその時の経験が、すごく鮮烈に印象に残っているんですよ。

―そういったものと、現代の最新のポピュラー音楽にも地下水脈的に流れ続けている本来の「ローファイ」的な美学の架け橋となるような音楽を作りたかった?

髙城:そうですね。僕はどの活動でもそういう「何かと何かをつなげる」というのがアイデアの発端になるので。当初のceroも、はっぴいえんど的なものとスフィアン・スティーヴンスやヴァン・ダイク・パークスのようなチェンバー・ポップ的音楽をつないで、自分たちもその星座の一つになりたいなというアイデアがあったし。 なんだろう…ジョー・ヘンリーって、すごくシアトリカルなアルバムの作り方をするじゃないですか。曲のお尻と次の曲の頭がつながっていて、切れ目がなく物語が続いていく沼のような音楽というか。図らずもそれが今のネット時代におけるミックステープ文化みたいな感覚とすごく似ているなと思って。その2つを繋げたいというのもありましたね。この感じ、今こそコンテンポラリーなものとして聴くことができるんじゃないか、という再発見。

―今まで話してきたものに加えて、ラテン的な音楽要素も感じます。そういった音楽も自分の中に蓄積されている?

髙城:そうですね。でもやっぱり、ラテン・プレイ・ボーイズとかマーク・リーボウとか、オリジナルから一つ段階を経ている音楽の影響が大きいと思いますね。あくまでラテン的音楽要素がアイデアの発端として扱われているものをキャッチしたくなるというか。

―なるほど。それって、ときに文化収奪みたいにいわれることもあったり…。

髙城:はいはい。

―でも、むしろマーク・リーボウとかも、あれだけアクチュアルな問題にも敏感でありながら、一方で、おそらく「本物」に多大な敬意があるからこそ自分で「偽」と名乗ってしまうような…なんというか、品格と倫理のある距離感というか。それを洗練と言い換えてもいいかもしれませんが。

髙城:分かります。オリジナルなものをとことん掘ってそこに肉薄するということが自分には出来ないだろうし、やっぱりそっちの方法にシンパシー感じます。都市的なものを追求しようと考えると、不思議とそういった「周縁」的な音楽要素なしにはモノを作れないっていう構造もある気がしますね。ラテンの例でいうと、それこそファンカラティーナとかも……。

―別の例だと、いろいろな音楽要素を取り入れているライ・クーダーの音楽を聴く時、その様々な音楽要素に魅せられつつも、最終的に最も印象に残るのはある種の都会的洗練だったりする。いくら戦前ブルースを模しても、キューバ音楽を取り入れても、ジェントルさを全面に感じる、みたいな。

髙城:そうですね。ライ・クーダーの2000年代以降のアルバムもすごく好きなんですけど、どれもすごく洗練された音響ですもんね。かなり参考にしてました。 それと、アルバムの制作中盤くらいから、更に別のリファレンスも設けたんです。これこそまさに今の若い子達のシーンと断絶してしまっていると思う。2000年代に日本で盛り上がっていたけど、いまやサブスクにも上がっていないものが沢山あって…。

―なんでしょう?

髙城:渡邊琢磨さんのCOMBO PIANOとか、琢磨さんが鈴木正人さんと組んだsighboatとか、三宅純さんのその時期の諸作とか……日本の現代音楽やポップス〜ジャズの人たちが90年代後半から2000年代かけて作っていた音楽。

―あ〜、なるほど。

髙城:すごく含蓄のある、ダイヤモンドみたいな音楽がいっぱいあるのに、今はほとんど顧みられていない気がして。当時のレーベルの事情とか色々な問題で配信にも上げられないとか複雑な事情があるらしいんですけど、すごく勿体ない。もし今普通に聴ける状態になったら、若い子たちはびっくりするんじゃないかなって思っていて。特に好きなのが鈴木正人さんの『UNFIXED MUSIC』というアルバム(2006年)。これはめちゃくちゃかっこいい。ビル・フリゼールとかも彷彿とさせるようなすごく渋くて良い作品です。それこそラテン風味も入っているし。身近な日本の音楽でこんなにカッコよくて知的なものがあったんだということを、今改めて発見している感じですね。まわりにこういうのを聴く人が本当に少ない…それこそ唯一あらぴーくらいじゃないかなと思いますけど(笑)。

―どの時代でも10年ちょっと前って一番現行シーンと断絶しがちな気がしますよね……もっと時間が経つと相対化も進んで再評価されたりすることもあるけど、近過去の音楽が一番振り返られる機会が少ない気がする。歴史の遠近法のエアポケットというか。

髙城:そうそう。10年近く前の話だけど、柴崎さんがrojiに来た時、俺がセイント・エティエンヌをかけてたら、「高城さんって珍しく近過去の音楽を聴く人ですよね」って言われて(笑)。あ〜、確かにって思って。

―忘れられがちなものを実体的に自分の表現に組み込んでいくって、音楽家にしかできないフックアップだし、編集作業という意味でもすごく意義のあることだと思います。

髙城:まあ、自分の場合単純に一段階遅れて「好き」が来るっていうことかもしれないけど…(笑)

―これまで話の中で上がってきた様々な音楽のテクスチャを総合すると、知性を感じさせつつもどこか耽美的で、メロウさもありつつもザラついた質感もあるものというか……聴いていてある種の陶酔感を覚える音楽が多いのかなという印象を持ちました。

髙城:そうですね。今作を制作するにあたって、「うっとりできる音楽」、というのは当初から念頭に置いていましたね。

―その「うっとり」というのを突っ込んで説明すると?

髙城:人によって千差万別あると思いますが、自分にとっては、甘さの中にどこか恐ろしさみたいなものが入ってないと「うっとり」出来ないなと持っていて。いわゆる「アメリカン・ゴシック」的な世界……例えばデヴィッド・リンチの映画とか。ああいうものにこそ「うっとり」があるなと思っていて。「ジャパニーズ・ゴシック」っていうといかにもな感じだけど(笑)、そういう世界を音楽で描き出せたら良いなとは思っていましたね。例えば、夜の街を歩いていて、スナックから漏れ聞こえるカラオケの音に不思議と血の匂いを感じてしまったり……そういう感覚には「うっとり」があるなと思っていて。

―ほう……。

髙城:映画芸術における、映像と音楽の異化効果作用みたいな考え方に近いのかもしれないですけど。血の惨劇のシーンで6/8の美しいバラードが流れるみたいな……。そういう感覚を音楽だけで表現できないかなと思っていました。

―「ジャパニーズ・ゴシック」の「ジャパニーズ」部分にフォーカスするなら、どこかかつての歌謡曲的やニューミュージック的なポピュラリティーも漂っているように感じます。渋谷CLUB QUATTROでのShohei Takagi Parallela Botanicaの初ライブを見ていた知人が、「80年代の中期のサザンオールスターズをダニエル・ラノワがプロデュースしているみたいな音楽みたいだった」と表現していて、なるほど、と思ったり。

髙城:あ〜、それはめちゃくちゃ嬉しい指摘ですね。サザンはもちろん、桑田佳祐のソロの『孤独の太陽』(1994年)とかも昔からすごい好きですね。「東京」(2002年)なんて、まさに「ジャパニーズ・ゴシック」的なものを感じるし。それこそ後続がいない音楽という気が。影響は大きいと思います。

―ボーカルの譜割りという面でも、ceroだと時にかなりアクロバティックで、日本語自体が持つ音節性の呪縛から離れようするような意識を感じるんですが、曲によるかと思いますけど、今作では、歌謡的な、日本語に引っ張られたような譜割りにそこまでストッパーかかってない気がして。

髙城:たしかにそうかもしれません。ceroではみんなが作ったイメージがきちんとあって、そのオーダーに応えるシンガーであるべきっていうのが先行するから、やっぱり全然考え方が違いますね。このアルバムの方がよりオーセンティックなシンガーとして言葉を選んでいるように思います。だいぶ思考回路が違うかもしれない。

―そういう意味で、ボーカリストとしての高城さんの魅力が再提示さている感じもします。

髙城:全体的にそんなにキーも高くないし、酒飲んでタバコ吸ってもサッと歌えるくらいの曲でありたいってのはあるかもしれない(笑)。 あ、それと、歌い方ということでいうと、sakanaの影響も大きいと思います。トーキング・ブルース的なのに沢山表情がつまったポコペンさんの歌唱……。ああいう感じで歌えたらいいなと。すごくよく言葉が聞き取れるけど、一方で歌謡的なメソッドとも違う、とても独特のニュアンスですよね。いつかポコペンさんをゲストに呼んでデュエットで歌いたいというアイデアもあって。女性の方が低い声で、男性の方がファルセットで歌うみたいなのとか、ロマンティックでいいなあと思っています。

―歌のフィジカル性と同じように、今回は髙城さんの弾く生々しいギターも大きくフィーチャーされています。しかも、めちゃくちゃ粋なプレイ。音作りもすごくいい。それこそマーク・リーボウやアート・リンゼイのような……。

髙城:おお、嬉しいな(笑)。

―レコーディングでギターをガッツリ弾くのって久々ですか?

髙城:めちゃくちゃ久々だし、多分今ceroを観てくれている人で俺がギターを弾けるって知らない人も結構いるんじゃないかなと思いますね、最近全然弾いてないから……(笑)。元々自分がいわゆるギター好きていう感じじゃないし、モデルとかにも全然こだわりがないし、真面目に基礎練習をするようなタイプでもないから、上手いですねっていわれたら、「なんかすいません」って感じなんですけど(笑)。でも今回、久々に腰を据えてギターボーカルをやってみて、やっぱ自分のギタープレイは自分の歌には合っているなって感じましたね。当たり前かもしれないけど(笑)。

―なんだろう……リズムがすごく自由ですよね。まさにアンチ・クオンタイズ。

髙城:ははは。まあ、それしかできないってのもあるけど。

―自らのバッキング的な要素としてサラッと入れたり、あるいはリード楽器として入れたりとかじゃない、歌とフレーズの距離が近いギター……うーん、強いていうと、田端義夫とかに近いのかも(笑)。

髙城:ははは。

―現在のいわゆるインディーシーンにおいてそれをやるって、かなり斬新だな、と。改めて曲作りの面においても、コードプログレッションとかを解剖的に聴くと、やはりギターオリエンテッドなものだなあと思いました。

髙城:そうですね。やっぱり作曲において自分が弾く楽器ってギターになってしまいますからね。デモの段階でも、自分では意識してないけどギター中心のミックスになっているものをSauce81さんへ渡しているんですよ。そうすると、Sauce81さんにとってはギターというものがかえって新鮮に感じられるのか、「今回はギターを中心に据えた構造で行こう」という意見になったんです。

―歌詞から見えてくるテーマについても訊かせてください。まず何より、すべての曲に渡って、夕暮れの情景を扱ったものが多いように思います。思えば、ceroにおける髙城さんの曲も、その時間帯を歌ったものが多いですよね。

髙城:そうですね。元々、その時間帯になると急に元気になるなあっていうのがあって(笑)。とにかく夕暮れの風景というのが好きなんです。歳を重ねるごとに自分は一種の「薄明主義」なんだなあと感じていて。松岡正剛さんの『フラジャイル 弱さからの出発』(松岡正剛 著 ちくま学芸文庫, 2005年)という本に、「トワイライトシーン」っていう章があるんですよ。まさにその名の通り夕暮れを哲学する内容なんですが、それがものすごく自分の感覚にピタリと来て。すべてが弱まっていく時間帯…この世とあの世を曖昧にするような時間帯。自分が思う「うっとり」の根幹はそれだなと思う。

―いわゆる「逢魔が時」。

髙城:そうそう。このアルバムの一曲目もずばり「トワイライト・シーン」という曲から始まるように、そういう時刻の色彩を三連画としてただ描き出していこうっていうのが最初のコンセプトでした。「トワイライト」というのはそもそも「ふたつの光」という意味なので、色彩が混じり合っているような感覚……。 ceroでは常に時制を伴った物語のようなアルバムの作り方をしてきたけど、今回は物語っていうよりも、絵画という方が近いと思っていて。青、白、黒、それとすこしの赤というように使う絵の具を決めて、アングルを変えた絵をそれぞれ作っていくという。もしそれで似たりよったりの曲だなって思われても、それはそれでいい。

―そういう時間帯における彼岸との接続みたいな感覚っていうのには、子供の頃から興味を持っていたんでしょうか?

髙城:そうだと思います。特段意識したことはないけど、逆に言ったらそれくらいに当たり前の感覚として夕焼けへの憧憬があったんだと思います。自分の原風景というか、何か考えたり作ろうとすると、その風景しか浮かばない。無理しないとお昼時を扱った音楽は作れない(笑)。 レオス・カラックスの『汚れた血』(仏 1986年)のラストシーン、薄曇りの中ずっと走っているというエンディング、まさにあんな感じ。ずーっと頭にそればっかり。本当はずっとそれだけ描ければ満足。

―なにか鮮烈な原体験があったんですかね……?

髙城:どうなんだろう…小さい頃、昼過ぎから家で寝ちゃって、目が覚めたら空が赤く染まった時間で、もしかしたら翌日の朝方まで寝ちゃったんじゃないか……?今何時なのかもわからないし人気もない……でもテレビをつけたら『笑点』がやっていて、「夕方だったなんだ」みたいな。そういうちょっと怖いような、変な世界へ入り込んでしまったような感覚は今でもよく思い出しますね。

―何かが暮れていく/光が弱っていくとき、ある種の終焉や死の匂いに触れると、逆にそれによって普段は意識していなかった生の尊さを感じる、というようなことなんでしょうかね……。

髙城:そうなんですかね……うーん、自分でもよく掴めないんですけどね。

―タイトルの『Triptych』というのは、先程も話が出てきたように、「三連祭壇画」の意味ですよね。これにもなにか参照元があるんでしょうか?

髙城:マディソン・スマート・ベルという米国文学の小説家が書いた『ゼロデシベル』(マディソン・スマート ベル 著, 駒沢敏器 訳 新潮社, 1991年)っていう素晴らしい短編集があるんですけど、その中から拝借しているんです。 (チャールズ・)ブコウスキーに連なるような、ちょっとストリート寄りで無骨な作風の人なんですけど、「Triptych」という作品が収められていて。本来はその名の通り三部作らしいんだけど、なぜか日本語版短編集には#1と#2しか入ってなくて、そこは謎。「Triptych #1」という作品が本の冒頭にきて、そこからいくつかに短編が挟まれて、「Triptych#2」が続いて、さらに短編が続いていくっていう不思議な作りなんですけど、その形がとてもいいなと思ったんです。

―いわゆる連作短編集?

髙城:いや、相互の短編は特に関係なくて。「Triptych #1」と「Triptych #2」のがものすごく写実的な小説で衝撃を受けて…。屠殺場で宙吊りになった豚から血が滴って、それが川まで流れている光景みたいなのをカメラに撮るように言葉で綴っているだけの小説。近くに住む女の子が迷子になってしまって、養豚場の人たちが娘の名前を呼んで探しているんだけど、当の女の子は豚の血溜まりのできた川にただしゃがんでいる……みたいな描写でいきなり終わるような。「なんなの、これ……」っていう読後感。特に何が起きるとかじゃなくて、状況を淡々と書き記していくというスタイル。他はもうちょっとカラフルな描写の短編集なんだけど、その2編のモノクロームな世界観が印象的で。絵画としてのTriptychでなく、短編集としてTriptych的な試みがなされているのが素晴らしいなと思って、こういう形態で音楽作品集を作れないものかなと思ったんです。

―(ネットで短編集の表紙画像を見ながら)表紙もエドワード・ホッパーの『ナイトホークス』のパチもんみたいで、なんというか、妖しさ満天ですね。

髙城:そう、その絵もいいんですよ。『ナイトホークス』オマージュということでいうと、それこそライ・クーダーがサントラを担当したヴィム・ヴェンダースの『エンド・オブ・バイオレンス』(仏・独・英 1997年)のポスターヴィジュアルもこんな感じですよね。

―高城さんは海外文学はじめ昔から読書好きですよね。そういった遍歴が今回の作詞に対しても反映されていると思いますか?

髙城:読者家っていえるほど読んでないし、特に最近は子供の世話をしながらだから遅いペースになってしまうけど、それでもやっぱり影響は大きいですよね。 今、本からの影響ということで思い出したことが一つ。今まで、亡くなった母親と邂逅を果たせる唯一の場所として、母親に聴いてもらいたいという思いで音楽を作ったり演奏してきたし、これからもそれはずっと続けていくと思うんですけど、今回に限っては父親に捧げたいと思って作ったんです。一人はもう亡くなってしまった実の父親。もう一人は今も側にいる父。ジョー・ヘンリーもそうだし、『ゼロデシベル』も父から教えてもらった小説なんです。今自分がこうして音楽を生業にしているのって、父親たちからの影響がすごく大きいなって思っていて。それへ恩返しをしたいという気持ちがある。もしかしたら、ある種のデカダンスにロマンを感じるのっていうのは、男系的な系譜の中で育まれることなのかもしれないなと思います。実際の父親二人のこと考えると、そういう趣向がある気がするし、自分にもそれは受け継がれていると思います。 よく小説の頭に「この小説を誰々に捧げます」というページがあるじゃないですか。このアルバムでも、もしそういうスペースがあるのなら、二人の父の名前を書きたいなと思っています。

―内面の吐露という形ではないけれど、そういった全体のテーマ設定の部分では、やはりシンガー・ソングライター的な真摯な主題があるんですね。

髙城:創作の最初のきっかけとしては、やっぱりそういう身近な動機があったほうがいいですよね。DJとかしてても、今日友達の誰々が片思いしている子と遊びに来ているなあって気づいたら、「その二人のために今日は頑張ろう!」とか思ったり(笑)。その方がフォーカスを絞れる。

―高城さん自身もお子さんが二人いたり、記憶の中の自分の父親の年齢に近づいて成熟していくという時の流れの中にいらっしゃると思います。自分にとって、そういう変化と創作ってどういった相互的関係があると思いますか?

髙城:よく、子供が生まれた途端「子育てハイ」というか、作る曲が子供一色になってしまう人ってのも少なくないと思うんですけど、自分はあまりそういうタイプじゃないなとは思いますね。でももちろん、子供の存在そのものや言動にインスパイアされるっていうことはすごくあって。子供ってある種のタイムマシンみたいな存在だなと思うんですよ。僕って物心つくのが遅くて、小学校中学年以前の記憶がまったくないタイプでなんですよ。でも子供を見ていると、不思議とその失われた記憶を回収していくっていうか、フラッシュバックするような瞬間があって。「あ〜、この感じ知ってる」って。そういう体験は創作にも影響を与えているなと思いますね。

―さっきの二人のお父さんの話も含めて、自分の生活や歩んできたことが、直接的にではなくて、通奏低音的に創作にも響き渡っているという印象を受けました。今後歳を重ねていく中で、どういった要素が次なる作品に表れ出るのかといったことは、成熟した音楽家の作品を長く聴いていくにあたってとても興味をそそられる部分です。

髙城:インタビューの最初の方にも言ったように、「実年齢に寄り添える音楽」っていうのがこのプロジェクトの大きなコンセプトなんです。ceroがいつでも立ち返れるものだとしたら、一緒に歳をとっていける音楽の最初の皮切りがこのアルバムだと思っています。 音楽性も大きく変えていこうとかも思っていないんですよ。これから複数作品を出していくにしても、なにか急激に変化させるということはこのプロジェクトに関してはないんじゃないかなと思っていて。自分の音楽の層を重ねていくというのはすごく楽しみ。同じような曲をずっと作っていく歓びっていうのが確実にあると思うんですよ。まあ、そういいつつも、自分も飽きっぽい人間だからガラッと変えちゃうかもしれないけど…(笑)。

―僕も含めてリスナー側としても、人生が流転していく中で折々で寄り添ってくれる音楽があるってとても素敵なんじゃないかなと思っていて。今、ポップミュージックという地平でいうと、ライヴリーなものばかりが持て囃されて、なかなかそういうものって得難かったりすると思うし。

髙城:うんうん。

―もちろん気分を上げてくれる音楽もいいけど、こういう作品が存在しているからこそ心安らかになる人も少なくないだろうなと思います。

髙城:だと嬉しいですね。

―最後にもうひとつ。リリース後に4/17に大阪で、4/25に東京でレコ発ライブの開催も決定していますね。どんな演奏になりそうですか?

髙城:このアルバムを一緒に作ったメンバーを交えてやろうと思っています。それと、大阪、東京ともに角ちゃん(角銅真実)ゲストアクトに迎えて、ツーマン的な感じですね。彼女のライブも素晴らしいので是非楽しんでほしいですね。

―ライブ活動は積極的にやっていく?

髙城:隙あらばやっていきたいなと思っています。こういう音楽がライブハウスっていう空間に紛れ込むのは面白いと思うし、出来れば夜中のクラブイベントとかにも、チークタイム的な感じで出演してみたいなと思いますね。

聞き手/構成:柴崎祐二