──ファースト・アルバム『エス・オー・エス』発売の年ですが、発売は12月なので、それまではずっと制作をしていたんですよね。
この年の3月に大学を卒業しました。ファースト・アルバム『エス・オー・エス』を出すのがこの年の暮れの12月15日。録ってたのは2009年、2010年で、曲によってはもっと前、2008年くらいに録った曲もあるかもしれないです。大学のスタジオとかを使って作っていて、とりあえず卒業にあたってアルバムを出そうということだけ決めてました。ミュージシャンとして生きていくことを決めていたというより、本当は(卒業にあたって)P-Vineの求人とかも見てたんですけど(笑)。でも、当時はリーマンショックの余波だったのか、いくつか他の求人も見たんですけどどこも募集がなかったし、就活というものを知らなかった。音大だったし、同期も7割フリーターになる、みたいな世界でしたね。
──当時のスカートは、まだ個人ユニットとしての活動でしたよね。
大学の後輩だった(佐藤)優介や、昆虫キッズのドラマーだった佐久間(裕太)さんなど、のちにスカートに参加するメンバーも当時から周囲にいたことはいたんですが、この時点ではまだスカートは不定形のユニットでした。優介は『エス・オー・エス』に参加してるけど、佐久間さんは参加してないし。一緒にやれたらいいなというイメージもあったかもしれないですけど、最初の時期のメンバーはプレイうんぬんよりも「友達だから」って理由で全員を誘った感じなんです。『ストーリー』を翌年に出す前くらいまでは、スカートは基本的に不定形でいいという気持ちでいましたよ。
──大学時代には一時、バンド編成で活動したこともあると聞いてます。
それがうまくいかなくて懲りたというトラウマもあったのかも(笑)。もうこりごりでやんす、という感じ。だから、この当時はライヴはほとんどやってないですね。僕の大学の森(篤史)先生とデュオ(ギターとキーボード)では何回かやりました。
──先生とデュオ?
森先生は「ソルフェージュ」っていう本来は聴音の授業をされていたんですけど、ぼくらに対しては変な授業をされてたんですよ。「きみたちのコース(サウンドプロデュースコース)ってソルフェージュとかたいせつじゃないでしょ? だからいろいろ音楽を聴いていきましょう。これもある意味で“聴音”だから」って話をされて。マイルスの後ろでプリンスがドラムを叩いてる映像を見たり、アース・ウィンド&ファイヤーの「After the Love Has Gone」をあらためて聴いて「この曲のうしろで何回転調しているか、みんなわかりますか?」みたいなことを聞いたり。
──昭和音大での学生生活に結構がっかりしていた澤部青年にとっては牧村憲一さんとともに大きな出会いですよね。
森先生の授業が僕が二年生のときに始まったのは大きかったですね。本当だったら2年でやめててもおかしくなかったくらいでしたから、あの授業のおかげでなんとか気持ちがつながった感じがちょっとしてました。森先生はSPANK HAPPYとか好きだったんで、そういう話もしたり。
──でも、実際にライヴまでやるのはすごくないですか? そのときの名義は?
スカートでした。前にやっていたバンドとしてのスカートは終わってたんで、誰がいてもスカートにしようという感じでやってましたね。森先生と一緒にやったスカートでは、2009年4月に高円寺の〈前衛派珈琲処マッチングモヲル〉っていう店で、NRQやまめッこ(藤井洋平)と対バンもしたことあります。NRQはまだ中尾(勘二)さんも入ってなかったんじゃないかな? まめッこがステージ上でずっと「まめっこ! まめっこー!」って言ってたのが印象に残ってますね。
──昆虫キッズにゲストで出てきてサックスやパーカッションを担当する人として一部で澤部くんが知られていたのもこの頃?
最初は無茶振りだったような気がしますね。でも、やっぱり昆虫キッズとのつながりがぼくは大きかったですよ。昆虫キッズの高橋翔、熊谷耕自、岩淵弘樹、僕は豊田道倫(パラダイスガラージ)さんの大ファンで、そこから知り合ったんです。
──『エス・オー・エス』の制作に話を戻すと、録り溜めた無数の音源をアルバムにするにあたって、どういうふうに詰めていったんですか?
最初は、在学した時の曲を全部入れた20曲入りとか30曲入りの大作を作ろうと思ってたんですよ。ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツとか、ああいうイメージのアルバムを作りたかったんですよ。とっちらかって仕方がないのが楽しいという。でも、最後のほうに「ハル」と「かぞえる」という曲ができたんです。その2曲ができたとき、とっちらかったアルバムにするのはやめようと思ったんです。いかにもアルバム然としたアルバムを作らなくちゃダメだと思ったんです。でも、結局はとっちらかったなという気もしてます。松永さんにも当時「曼荼羅」と言われました(笑)
──そんなこと言ったっけ? でも、『エス・オー・エス』には宅録ゆえのおもしろさもいろいろ詰まってました(笑)。「ハル」はできたときから1曲目になると思ってました?
できたときはそうは思ってなかったんですけど、コンピレーションじゃないアルバムを作れる自信ができたんです。「ハル」があのなかでいちばん最後にできた曲なんじゃないかな。「かぞえる」は結局アルバムには入らず、『COMITIA 100』(2012年5月)に入りました。
──あのサイズ感にできたのは結構大きい決断でしたね。
そう思います。あの13曲で35、6分というサイズのものが作れた喜びを当時は相当噛み締めていたと思いますよ。それから、『エス・オー・エス』の制作が終わった段階で、七針でライヴをやってますね(2010年10月7日)。優介と大学の後輩だった塩野くんと一緒に演奏しました。Hara Kazutoshiさんとか麓健一さんが対バンでしたね。
──自分のレーベル〈カチュカ・サウンズ〉で出すことにした経緯は?
とりあえずマスタリング前に金野(篤)さんのMy Best! Recordsで『エス・オー・エス』を出してもらえないだろうかとプレゼンに持って行ったんです。金野さんと知り合ったのは2009年くらいかな。あの人も“パラガ一派”で、豊田さんのライヴで知り合ったんです。熊谷が「この人(金野)がザ・ムンズのCDを出した人だよ」って紹介してくれました。そしたら「今度はちみつぱいのボックスを出すんだ。聴いたコメントを撮らせてくれ」って言われて。それが、ぼくがしゃべってる最古の映像資料のひとつになりました。いまだにぼくがはちみつぱいを語る映像がYouTube内を放浪してますよ(笑)。
──そんな関係だったら、My Best!で出せそうなものだけど。
金野さんには「澤部くんじゃなかったら完璧」って言われました(笑)。それで「わかった、自主でやるよ!」と決意して、バイト代を貯めて、自分でプレスしました。あ、バイト代だけじゃないな。yes, mama ok?の『CEO -10th Anniversary Deluxe Edition』が金野さんのもうひとつやっているレーベルSUPER FUJIから出ることになっていたので、そのディスク2の蔵出し音源の選定やデータ変換をしたり、ライナー書いたり、という仕事に対するギャラも合わせてプレスしたんです。 でも、自主でやろうと思ったのは、昆虫キッズがいたことが大きいです。彼らの『My Final Fantasy』(2009年3月)ってアルバムが、自分たちのレーベルでの自主流通でしたから。高橋くんがCDショップへの流通を担当してくれるBridgeの担当者を紹介してくれました。それで自分でもやれるかもしれないと思えた。それは本当に大きかったです。Bridgeにはそれから5年くらいお世話になりましたからね。
──CDの封入まで自分でやってたんですよね。
『エス・オー・エス』から、ジャケットはイラスト、ジャケットは手折り、CDは手詰めという完全自主制作が4作続きます。当時は、まだCDが今みたいに安く作れるようになる手前だったいうのが理由にあったんです。4ページのブックレットにジュエルケース、キャラメル包装でも10万円ちょっとはかかったんじゃないかな。でも『エス・オー・エス』方式で自分でやると、8万円くらいで済んだ。
あと、パッケージとしてはこの年に出た久下惠生さんのアルバム『THE FIST』と豊田道倫さんのアルバム『バイブル』のパッケージを参考にしました。僕も“パラガ一派”ですから(笑)。
──『エス・オー・エス』は廣中真吾さんのイラストも印象的でした。
『エス・オー・エス』でイラストを描いてもらった廣中真悟さんとは面識があったわけではなく、pixivとかで見て、シンプルに「絵が好きだなー」と思ってたんです。廣中さんが当時やっていたブログに、毎日モノクロのイラストが上がっていて、それが本当に素晴らしくて。これはこのアルバムにぴったりだと思ってお願いしたんです。曲を聴いて思ったように描いてください、と。
この時点で、すでに漫画家さんとの交流は始まってましたね。アルバムが出たときにコメントをもらったTAGROさんもそうだし、青木俊直さんも好きで同人誌とかをよく買っていたら青木さんも僕を気にしてくれて、みたいなつながりはありました。でも、このアルバムのときは廣中さんが『エス・オー・エス』ってアルバムのイメージにぴったりだったんです。
──そして、ようやく『エス・オー・エス』が発売に。
発売日は12月15日。この日にした理由は、パラダイスガラージ『実験の夜、発見の朝』デラックス・エディションと、すきすきスウィッチ『忘れてもいいよ』デラックス・エディションの当初のリリース予定日だったから(その後、すきすきスウィッチは発売延期)。「おなじ日に自分もリリースしよう!」と思ったんです。そこもまた強烈なインディー魂でした(笑)。誕生日は12月6日なので、リリースの準備してるときはまだ22歳だったのに、「23歳の新鋭が」ってプレス用の資料に自分で書いた記憶があります(笑)。
(2011年に続く)