Skirt
10th
Anniversary

Release
Information

アナザー・ストーリー

2020.12.16 On Sale

スカート 10周年記念ニューアルバム
「アナザー・ストーリー」

CD + LIVE BD 4,500yen + tax
CD 2,500yen + tax

・収録曲(両形態共通)
M1. ストーリー(先行配信中)
M2. セブンスター
M3. 返信
M4. ともす灯 やどす灯
M5. 月の器
M6. おばけのピアノ
M7. 千のない
M8. サイダーの庭
M9. スウィッチ
M10. わるふざけ
M11. ゴウスツ
M12. さかさまとガラクタ
M13. すみか
M14. 花をもって
M15. 月光密造の夜
M16. ガール

・LIVE BD収録内容
スカート10周年記念公演「真説・月光密造の夜」

店頭特典

10周年記念メダル 表
10周年記念メダル 裏

10周年記念メダル
※全国のCDショップにて2020年12月16日発売「アナザー・ストーリー」をご予約・ご購入のお客様に、先着で上記オリジナル特典をプレゼント。
各店舗でご用意している特典数量には限りがございますので、お早目のご予約をおすすめいたします。
※特典は数に限りがございますので、発売前でも特典プレゼントを終了する可能性がございます。
※一部取り扱いの無い店舗やウェブサイトがございます。ご予約・ご購入の際には、各店舗の店頭または各サイトの告知にて、特典の有無をご確認ください。

Amazon 予約購入 先着特典 : メガジャケ(24cm×24cm)
※Amazonにて2020年12月16日発売「アナザー・ストーリー」をご予約・ご購入のお客様に、先着でメガジャケをプレゼント。
※特典は数に限りがございますので、発売前でも特典プレゼントを終了する可能性がございます。

オンラインイベント

TOWER RECORDS
タワーレコード全店、およびオンラインでのご購入者を対象にしたオンライン配信ライブ決定!
2021年1月11日(月) 19:00~

詳細はこちらをご覧ください。

Special
Interview

スカート10周年
スペシャルインタビュー

アナザー・ストーリー

インタビュー by 松永良平
Interview 01
2010

 スカート『エス・オー・エス』を手に取るのは2011年だったけど、「澤部渡」「スカート」の名前はなんとなく知っていた。ぼくのやっていたブログでプレゼントしていたミックスCD-Rに澤部くんから応募があったから。彼がいまもやっているブログ「幻燈日記帳」を覗きにいった記憶がある。そのときに「スカートというバンドをやっている」とプロフィールに書いてあったのを見たのが、たぶん、最初の認識だった。(松永良平)


──ファースト・アルバム『エス・オー・エス』発売の年ですが、発売は12月なので、それまではずっと制作をしていたんですよね。

 この年の3月に大学を卒業しました。ファースト・アルバム『エス・オー・エス』を出すのがこの年の暮れの12月15日。録ってたのは2009年、2010年で、曲によってはもっと前、2008年くらいに録った曲もあるかもしれないです。大学のスタジオとかを使って作っていて、とりあえず卒業にあたってアルバムを出そうということだけ決めてました。ミュージシャンとして生きていくことを決めていたというより、本当は(卒業にあたって)P-Vineの求人とかも見てたんですけど(笑)。でも、当時はリーマンショックの余波だったのか、いくつか他の求人も見たんですけどどこも募集がなかったし、就活というものを知らなかった。音大だったし、同期も7割フリーターになる、みたいな世界でしたね。

──当時のスカートは、まだ個人ユニットとしての活動でしたよね。

 大学の後輩だった(佐藤)優介や、昆虫キッズのドラマーだった佐久間(裕太)さんなど、のちにスカートに参加するメンバーも当時から周囲にいたことはいたんですが、この時点ではまだスカートは不定形のユニットでした。優介は『エス・オー・エス』に参加してるけど、佐久間さんは参加してないし。一緒にやれたらいいなというイメージもあったかもしれないですけど、最初の時期のメンバーはプレイうんぬんよりも「友達だから」って理由で全員を誘った感じなんです。『ストーリー』を翌年に出す前くらいまでは、スカートは基本的に不定形でいいという気持ちでいましたよ。

──大学時代には一時、バンド編成で活動したこともあると聞いてます。

 それがうまくいかなくて懲りたというトラウマもあったのかも(笑)。もうこりごりでやんす、という感じ。だから、この当時はライヴはほとんどやってないですね。僕の大学の森(篤史)先生とデュオ(ギターとキーボード)では何回かやりました。

──先生とデュオ?

 森先生は「ソルフェージュ」っていう本来は聴音の授業をされていたんですけど、ぼくらに対しては変な授業をされてたんですよ。「きみたちのコース(サウンドプロデュースコース)ってソルフェージュとかたいせつじゃないでしょ? だからいろいろ音楽を聴いていきましょう。これもある意味で“聴音”だから」って話をされて。マイルスの後ろでプリンスがドラムを叩いてる映像を見たり、アース・ウィンド&ファイヤーの「After the Love Has Gone」をあらためて聴いて「この曲のうしろで何回転調しているか、みんなわかりますか?」みたいなことを聞いたり。

──昭和音大での学生生活に結構がっかりしていた澤部青年にとっては牧村憲一さんとともに大きな出会いですよね。

 森先生の授業が僕が二年生のときに始まったのは大きかったですね。本当だったら2年でやめててもおかしくなかったくらいでしたから、あの授業のおかげでなんとか気持ちがつながった感じがちょっとしてました。森先生はSPANK HAPPYとか好きだったんで、そういう話もしたり。

──でも、実際にライヴまでやるのはすごくないですか? そのときの名義は?

 スカートでした。前にやっていたバンドとしてのスカートは終わってたんで、誰がいてもスカートにしようという感じでやってましたね。森先生と一緒にやったスカートでは、2009年4月に高円寺の〈前衛派珈琲処マッチングモヲル〉っていう店で、NRQやまめッこ(藤井洋平)と対バンもしたことあります。NRQはまだ中尾(勘二)さんも入ってなかったんじゃないかな? まめッこがステージ上でずっと「まめっこ! まめっこー!」って言ってたのが印象に残ってますね。

──昆虫キッズにゲストで出てきてサックスやパーカッションを担当する人として一部で澤部くんが知られていたのもこの頃?

 最初は無茶振りだったような気がしますね。でも、やっぱり昆虫キッズとのつながりがぼくは大きかったですよ。昆虫キッズの高橋翔、熊谷耕自、岩淵弘樹、僕は豊田道倫(パラダイスガラージ)さんの大ファンで、そこから知り合ったんです。

──『エス・オー・エス』の制作に話を戻すと、録り溜めた無数の音源をアルバムにするにあたって、どういうふうに詰めていったんですか?

 最初は、在学した時の曲を全部入れた20曲入りとか30曲入りの大作を作ろうと思ってたんですよ。ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツとか、ああいうイメージのアルバムを作りたかったんですよ。とっちらかって仕方がないのが楽しいという。でも、最後のほうに「ハル」と「かぞえる」という曲ができたんです。その2曲ができたとき、とっちらかったアルバムにするのはやめようと思ったんです。いかにもアルバム然としたアルバムを作らなくちゃダメだと思ったんです。でも、結局はとっちらかったなという気もしてます。松永さんにも当時「曼荼羅」と言われました(笑)

──そんなこと言ったっけ? でも、『エス・オー・エス』には宅録ゆえのおもしろさもいろいろ詰まってました(笑)。「ハル」はできたときから1曲目になると思ってました?

 できたときはそうは思ってなかったんですけど、コンピレーションじゃないアルバムを作れる自信ができたんです。「ハル」があのなかでいちばん最後にできた曲なんじゃないかな。「かぞえる」は結局アルバムには入らず、『COMITIA 100』(2012年5月)に入りました。

──あのサイズ感にできたのは結構大きい決断でしたね。

 そう思います。あの13曲で35、6分というサイズのものが作れた喜びを当時は相当噛み締めていたと思いますよ。それから、『エス・オー・エス』の制作が終わった段階で、七針でライヴをやってますね(2010年10月7日)。優介と大学の後輩だった塩野くんと一緒に演奏しました。Hara Kazutoshiさんとか麓健一さんが対バンでしたね。

──自分のレーベル〈カチュカ・サウンズ〉で出すことにした経緯は?

 とりあえずマスタリング前に金野(篤)さんのMy Best! Recordsで『エス・オー・エス』を出してもらえないだろうかとプレゼンに持って行ったんです。金野さんと知り合ったのは2009年くらいかな。あの人も“パラガ一派”で、豊田さんのライヴで知り合ったんです。熊谷が「この人(金野)がザ・ムンズのCDを出した人だよ」って紹介してくれました。そしたら「今度はちみつぱいのボックスを出すんだ。聴いたコメントを撮らせてくれ」って言われて。それが、ぼくがしゃべってる最古の映像資料のひとつになりました。いまだにぼくがはちみつぱいを語る映像がYouTube内を放浪してますよ(笑)。

──そんな関係だったら、My Best!で出せそうなものだけど。

 金野さんには「澤部くんじゃなかったら完璧」って言われました(笑)。それで「わかった、自主でやるよ!」と決意して、バイト代を貯めて、自分でプレスしました。あ、バイト代だけじゃないな。yes, mama ok?の『CEO -10th Anniversary Deluxe Edition』が金野さんのもうひとつやっているレーベルSUPER FUJIから出ることになっていたので、そのディスク2の蔵出し音源の選定やデータ変換をしたり、ライナー書いたり、という仕事に対するギャラも合わせてプレスしたんです。  でも、自主でやろうと思ったのは、昆虫キッズがいたことが大きいです。彼らの『My Final Fantasy』(2009年3月)ってアルバムが、自分たちのレーベルでの自主流通でしたから。高橋くんがCDショップへの流通を担当してくれるBridgeの担当者を紹介してくれました。それで自分でもやれるかもしれないと思えた。それは本当に大きかったです。Bridgeにはそれから5年くらいお世話になりましたからね。

──CDの封入まで自分でやってたんですよね。

 『エス・オー・エス』から、ジャケットはイラスト、ジャケットは手折り、CDは手詰めという完全自主制作が4作続きます。当時は、まだCDが今みたいに安く作れるようになる手前だったいうのが理由にあったんです。4ページのブックレットにジュエルケース、キャラメル包装でも10万円ちょっとはかかったんじゃないかな。でも『エス・オー・エス』方式で自分でやると、8万円くらいで済んだ。
 あと、パッケージとしてはこの年に出た久下惠生さんのアルバム『THE FIST』と豊田道倫さんのアルバム『バイブル』のパッケージを参考にしました。僕も“パラガ一派”ですから(笑)。

──『エス・オー・エス』は廣中真吾さんのイラストも印象的でした。

 『エス・オー・エス』でイラストを描いてもらった廣中真悟さんとは面識があったわけではなく、pixivとかで見て、シンプルに「絵が好きだなー」と思ってたんです。廣中さんが当時やっていたブログに、毎日モノクロのイラストが上がっていて、それが本当に素晴らしくて。これはこのアルバムにぴったりだと思ってお願いしたんです。曲を聴いて思ったように描いてください、と。
 この時点で、すでに漫画家さんとの交流は始まってましたね。アルバムが出たときにコメントをもらったTAGROさんもそうだし、青木俊直さんも好きで同人誌とかをよく買っていたら青木さんも僕を気にしてくれて、みたいなつながりはありました。でも、このアルバムのときは廣中さんが『エス・オー・エス』ってアルバムのイメージにぴったりだったんです。

──そして、ようやく『エス・オー・エス』が発売に。

 発売日は12月15日。この日にした理由は、パラダイスガラージ『実験の夜、発見の朝』デラックス・エディションと、すきすきスウィッチ『忘れてもいいよ』デラックス・エディションの当初のリリース予定日だったから(その後、すきすきスウィッチは発売延期)。「おなじ日に自分もリリースしよう!」と思ったんです。そこもまた強烈なインディー魂でした(笑)。誕生日は12月6日なので、リリースの準備してるときはまだ22歳だったのに、「23歳の新鋭が」ってプレス用の資料に自分で書いた記憶があります(笑)。

(2011年に続く)

《澤部渡が選ぶ2010年の漫画と音楽》

漫画:西村ツチカ『なかよし団の冒険』

最初はツイッターか何かで誰かのリツイートで流れてきたんです。「この漫画は絶対に見逃すわけにはいかない」と思って、当時バイトしてた書店で一冊だけ入荷したのを確保しました。まさか翌年にその人とバンド(トーベヤンソン・ニューヨーク)を組むことになるとは思ってませんでしたが。

音楽:すきすきスウィッチ『忘れてもいいよ』

豊田さんに勧められたのか日記で書いていたのを見たのか忘れましたけど、聴いたのは2010年で、1月に御茶ノ水のJANISで最初の再発CDを借りました。こりゃすげえと思って、イエママの再発のときに金野さんに「すきすきスウィッチって知ってます?」って聞いたら、「え? 今度デラックス版で再発するよ」って言われたのをすごく覚えてます。それでぼくも再発盤では少しお手伝いをしました。

Interview 02
2011

──『エス・オー・エス』という名刺がわりのファースト・アルバムを手にして2011年が明けました。

 でも、自分の未来は全然見えてなかったですね。だけど、縁があってココナッツディスクで『エス・オー・エス』を扱ってくれて、吉祥寺店のブログで矢島店長が「ハル」のMVと一緒に紹介してくれたのが最初の反響としては、いちばん大きかったと思います。当時、新宿タワーレコードでも結構仕入れてくれました。『エス・オー・エス』の初回は500枚プレスしたんですけど、結局、この年の秋くらいに完売したという記憶があります。それでセカンドプレスから廣中さんにお願いして新しくジャケットを描いてもらい、サードプレスでも変えていきました。

──廣中真吾さんのイラストが、マイナーチェンジじゃなくて、まるっきり別のイラストに変わっていったのも驚きました。しかも、だんだん地味になっていくという。

 廣中さんにはたぶんなんのディレクションもしてないんです。でも、アルバムの曲を考えると(地味になっていったのは)妥当かなという気もしてます。派手なレコードではなかったので。

──とはいえ、『エス・オー・エス』には、あの頃にしかない音楽がありますけどね。

 そうですね。悔しいけど、いまでは書けないような曲も入ってる。

──たとえば、いつか全曲再現で『エス・オー・エス』をやるとか考えたります? 一曲ごとに編成も録音の仕方も違うから、逆にライブでやるとどうなるのか。

 おもしろそうだとは思いますね。「いまの5人でやってください」って話が来たらやってみたい。

──アレンジに忠実に、ということでないなら、それはおもしろくなりそう。

 とにかく『エス・オー・エス』はライヴ向きじゃなかったんです。そして、CDを売るにはライヴをしなきゃならない、というのが大きかった。それでバンドを固定化して、だんだんいまにつながるかたちになっていったのがこの年です。

──『エス・オー・エス』のレコ発は?

 震災の一週間前、3月6日に三軒茶屋のGRAPEFRUIT MOONでした。〈第二回 月光密造の夜〉をやってるんですよ。対バンは昆虫キッズ、カメラ=万年筆。カメ万はまだアルバムを出す前でしたけど、『coup d'État』(2012年2月)に入ってる「school」って曲をあの日に初めて演奏して、「わー、いい曲だなあ」と思いましたね。「bamboo boat」とかもやってた気がする。

──動員的にはどれくらい?

 『エス・オー・エス』の最初に入った売上で買ったMacBookを使って、その日の特典のCD-Rを焼いたんですけど、僕の記憶があってるなら60枚くらい焼いたので、60人は来てくれたと思います。のちに『ストーリー』のイラストを描いてもらうことになる見富拓哉さんにお願いしたフライヤーをジャケットに使ってるんです。

──見富さんと知り合った経緯は?

 見富さんとは、僕がCOMIC ZINとかで同人誌を買ってよく読んでたなかで「なんとおもしろい人なんだ」と思ってコンタクトして、親交ができた感じです。

──この頃、初めてじかに会ってますよね。O-nestだったかな。

 2011年4月のcero『WORLD RECORD』のリリパ(渋谷O-nest)ですね。カクバリズムとの接点としても、あの日が最初かもしれないですね。当時は、昆虫キッズ、シャムキャッツ、ceroがいるシーンっていう見え方があったから、僕も昆虫キッズと仲が良かった流れでみんなと知り合っていたんじゃなかったのかな。ゼキさん(大関泰幸)とも昆虫キッズつながりですでに仲良くなっていました。

──そうそう。「このふたり、つながってたんだ!」と驚いた記憶がある。

 あの夜、ライヴ後にラウンジでいろいろ話していたらゼキさんと松永さんが角張さんに推してくれて、その年の〈下北沢インディーファンクラブ〉(2011年6月26日)に出させてもらうことになりました。daisybarでしたね。懐かしい。
 あのときは優介、清水(瑶志郎)、ドラムがすきすきスウィッチの佐藤幸雄さんと絶望の友というバンドを組んでいたPOP鈴木さんの4人で出ましたね。佐久間さんは出番が昆虫キッズとバッティングしていたのかな。POPさんとは、この頃、ギターとドラムだけの編成でやったことも何度かありましたね。前野健太さん主催の〈DV Fes〉がこの年の2月にフォレストリミットで一週間くらいあって、その中の1日(2月9日)にPOPさんと二人でやらないかというオファーを受けたんです。そこから1年くらいは一緒にやってたんですよね。

──POP鈴木さんとのスカートはハードコアな感じでしたね。やってる曲はスカートなんだけど。

 そうでした。POPさんとやってるときはすきすきスウィッチや絶望の友のような異形のポップスを目指していました(笑)
 今の基本となる4人が全員揃ってライヴしたのって、この年の5月くらいじゃなかったかな。まだ僕もどういうふうにスカートとしてやっていこうか決めかねてた時期だったと思います。『ストーリー』をレコーディングすることになる南池袋ミュージック・オルグには、この年の7月30日に初めて出ました。その日は、白い汽笛、oono yuuki、柴田聡子、スカート。めちゃくちゃいいメンツでしたね! 確か、この日は唐木(元)さんがベースをひいたんですよ。

──震災(3月11日)の頃は、どうしてたんですか?

 『エス・オー・エス』を出してすぐくらいの時期に、トーベヤンソン・ニューヨークがすでに始まっていて、震災の2日後(3月13日)もスタジオ入る予定だったんです。地震があって「どうする?」ってなったときも「キャンセル料払わなくちゃいけないから、みんなで集まろっか」みたいな感じだったかな。そのときに「返信」の最初のデモをみんなに聴かせたら、「コードが難しすぎるからやれない」って言われて、結局自分でやることになりました(笑)。

──そうか、トーベヤンソン・ニューヨークもちょうど10周年くらいなんですね。それもまた感慨深い。この年の後半は『ストーリー』の制作に向かい、年末に発売、という感じですよね。

 後半には、自分のなかで大きかったライブがいくつかありました。11月に曽我部恵一さんに呼んでもらった下北沢440でのコンサート(10月20日、〈曽我部恵一 presents "shimokitazawa concert〉)。出演は、イノトモさん、直枝(政広)さん、曽我部さん。あれはマジで最高でした。あと、『ストーリー』が出る直前に、横浜の視聴室その2で、昆虫キッズ、片想い、スカートというスリーマン(12月3日、〈両想い〉)がありました。当時の動員記録を塗り替えたライブになったという噂をききました。

──Rojiでのライブもありましたよね。10月2日だったかな。『ストーリー』のプレス代を稼ぐという名目で急遽企画された記憶があります。

 そうそう! 当時のRojiは髙城くんのお母さんのルミさんもまだお店に立っていて。「いやー、そろそろ出したいんですけどプレス代がないっすわー」って話をしたら、「じゃあうちで投げ銭でやればいいじゃない?」ってルミさんが言ってくれて決まったんです。

──日曜日でしたよね。43曲やった。こないだの三井ホールのMCでも言及されていた「過去に43曲やったライブがある」というのが、あれだった。ブログ(「幻燈日記帳」)やmixiにその日のセットリストが残ってますけど、帰宅後にユーストリームで弾き語り配信もやっていて、それまで含めると全59曲!

 スカートのワンマンとしてもあれが初だったと思いますよ。あのとき4、50人入って結構な額になったし、プレス代の助けにもなりました。でかかったですね。

──そして12月15日に『ストーリー』が出ます。

 『ストーリー』ができたときの手応えは、『エス・オー・エス』のときよりもめちゃくちゃ大きかったんで、これが世に出たら何かは起きるんじゃないかという気にはなってましたね。

──僕が澤部くんに初めてロング・インタビューしたのがその直前で、まだどういう反応があるかに対してちょっと不安げだったのを覚えてます。でも、結果的に『ストーリー』がスカートの運命を切りひらく作品になりました。

 タイトル曲の「ストーリー」は、最初は女性ヴォーカルで宅録で作ってて、ライヴでも何度かやって「これはこれでいいんだけどな」というくらいの感じだったんです。正式に出すときのカップリングは、バンドの演奏にしようと決めてたんですけど、それを録る当日に、「ちょっと相談なんだけど、「ストーリー」をみんなでやってみない?」って言って。やってみたら、「もうこれで決まりだわ」みたいな感じになりました。
 結果『ミュージック・マガジン』でも10点をいただいて。いろんな意味で、全部がうまくいった気がしますね。

(2012年に続く)

《澤部渡が選ぶ2011年の漫画と音楽》

漫画:見富拓哉『エラッタ 彼岸泥棒集成Ⅱ』

トーベヤンソン・ニューヨークのリハーサルのあとにみんなでコミティアに行ったんですけど、それが初めてのコミティアで、そこで買ったのが見富さんのこのまとめ本でした。親交ももうあったわけですけど、コミティアという場所でこの本を買った、っていうのは自分にとっては大きい気がしますね。

音楽:大滝詠一『A LONG VACATION』

この年はいろいろ印象的な音楽が沢山あったんだけれども、今でも思い出すのは3月13日のリハーサルの前にシャムキャッツの「渚」を買おうと立ち寄ったユニオン本館の地下(日本のロック・インディーズ館)で流れていた『A LONG VACATION』です。コロンビアのポータブルプレイヤーで流れていて泣きそうになったことをよく覚えています。

Interview 03
2012

──『ストーリー』が出て年が明けましたね。

 〈COMITIA〉に初めて出展したのが、この年の2月の〈COMITIA 99〉(2012年2月5日)でした。それまでも〈COMITIA〉には何度か遊びに行ってて、「この感じはうらやましいな」と思ってたんですよ。

──でも、漫画を描いて持って行こうとしてたわけじゃないでしょ。

 その前後くらいの時期に、西村ツチカさんと「連載を持つということは月に一本いい曲を書かなくちゃいけないってことと同じだ」って話をしてたことがあって、自分もそういう縛りに挑戦してみたいなと思ったんです。もしかしたら、99の頃はまだ「とりあえずやってみよう」くらいの感じだったかもしれないですけど。ここから2013年の〈106〉に至るくらいまでは、とにかく新しい曲を書いて、そのデモをCD-Rにまとめて、よくても悪くても発表するということを〈COMITIA〉でやってみようと思ったんですよね。そういうのもたぶん、豊田道倫さんの影響だと思うんですけど。

──つまり、漫画やイラストで賑わう場所で、自分の曲を販売するということですよね。

 〈COMITIA〉に出るにあたっては、キネマ倶楽部でカーネーションのライヴを見たあとに良識派っていうサークルの大野冷さんに「(澤部くんが)出展するんだったら〈その他〉がいいよ」ってアドバイスを受けました。〈その他〉は、文字通り、漫画でなくてもいいブロックで、それがね、いいムードだったんですよ。

──それで、できたのがCD-R『COMITIA 99』。

 『COMITIA 99』はアートワークとかもなくて、盤とコードブックだけだったかな? このときのコードブックの表紙が大好きなんですよ(笑)。これを超えることはいまだにできてないですねー。

──『ストーリー』の評判もいいし、順調そうな感じに見えますが。

 ただ、個人的にはすごく落ち込んでましたね。かなりライヴに対して心が折れてたんです。『ストーリー』を出してすぐ下北沢THREEでやったライヴ(2012年1月19日〈金ちゃんの「ロックンロールサーカス」その⑦〉)で、スカートを見に来たお客さんは2人くらいじゃなかったかな。「やっぱりライヴは向いてないんだな」と思って、「今来てる誘いだけ受けて、あとはもうライヴは当分いいや!」という気持ちになっていたんです。実際、いくつか誘いを断ったりしてて、『ストーリー』のレコ発も決めてなかったんです。2月にミツメと初めて対バンしたライヴがSHELTERであったんですけど(2月6日、〈SHELTER PRESENTS"New Young City"〉)、そのときに見にきてくれた髙城くんと社長(角張)が爆踊りしてくれて、ちょっと救われる気持ちになるとかはあったんですけど。

──その頃からぼくもよくライヴを見てましたけど、たしかにお客さんが少ない日はありましたね。

 もともとライヴに対する気持ちが消極的だったんだと思いますよ。なおかつ人も来ないんじゃ、気分的にもどうしようもなかった。『ストーリー』は評判よかったはずなのにお客さんは来ない。その頃はライヴ始めたてだったから、どうしたらいいかもわかってないし、荒削りにやり過ぎてたのかなあ。

──あの頃のスカートのライヴといえば、「返信」あたりから始まって怒涛のメドレーをやるイメージでしたね。あれはあれで勢いも迫力もあったけど。

 あれもライヴをどうしたらいいかわからないゆえでしたね。とにかくしゃべりたくない時期があったし、一言もしゃべりたくなかったからメドレーになったんだと思います。

──でも、この頃から物販でTシャツを販売し始めますよね。

 最初はツチカさんにロゴを描いてもらったやつですよね。2012年の4月でした。

──結構売れてたイメージでしたけど。

 いや、そうでもないですよ。スカートのグッズはいつもゆるーく売れていきます。パッと「売れたな」と思ったのは“顔T”くらいからですね(笑)

──そんななかですが、6月には、初のアナログLP『消失点』が出てます。

 カチュカサウンズとMy Best!の両名義で出しました。この企画は、My Best!の金野さんに「なんでもいいからレコード出させてくれ」って持ちかけて実現しました。

──内容も濃密だったけど、ツチカさんの描いたジャケットイラストも超濃密で凄かった。小西康陽さんが雑誌『フリースタイル』のコラムでとりあげてましたね。

 未発表曲や未発表テイクを中心に選曲したんですけど、いまにして思えば未発表物だけでまとめておけばよかったかも。当時は「初期ベスト盤」というか「架空のベスト盤」みたいな言い方をしてましたね。高校時代の宅録音源とかをCDでは出すのがちょっとはばかられるけど、アナログだったら出してもいいだろ、みたいな気持ちがあって。最初に250枚作って、売り切れたので200枚追加プレスしました。スカートのフィジカルリリースではCD-Rを除けばいちばん数が少ないと思います。

──7月には渋谷WWWでの〈月光密造の夜〉(7月25日)が開催されます。第三回になりますね。

 第一回は大学生の頃に、麓健一+高橋翔、ミックスナッツハウスの林さんのソロ、スカートの3組で江古田のCafe FLYING TEAPOTでやったんです(2008年3月27日)。第二回がGRAPEFRUIT MOONで昆虫キッズ、カメラ=万年筆とやった『エス・オー・エス』のレコ発(2011年3月6日)。第三回は第二回とおなじメンツでした。あの夜のために新曲として作ったのが〈月光密造の夜〉という曲でした。

──当時のスカートとしてはWWWはかなり大きなハコでしたよね。

 その頃、昆虫キッズを通じてWWWの名取さん(渋谷WWW代表)と知り合うんですよ。名取さんが「(『ストーリー』の)レコ発、まだやってないの? うちでやんなよ」」って言ってくれて。「いやー、でもWWWは広いから、お客さん来ますかね?」って僕が言ったら「(チャージを)安くやっちゃえばいいんだよ」って提案してくれて。それでチャージ1000円+2ドリンクのライヴをレコ発として打ったんです。WWWにすごくお客さんが来てくれて。「こんなに入るのか!」ってびっくりしました。あれで「(スカートでライヴを続けていけば)どうにかなるかもしれない」って気持ちになりました。

──その夜のスカートのライヴは、そのままライヴ盤にもなりました。

 その日のライヴを馬場(友美)ちゃんにマルチで録っててもらってたんです。せっかくのレコ発だし、なんかもったいないという気持ちだったんだと思います。最初は発表するつもりもなかったんです。聴き返してたら、演奏も粗いし、歌も相当疲れてるのがわかる感じなんだけど「勢いがとってもあるから、これはリリースしてもいいかもね」って声もあったので、CD-Rにして9月に出したんです。

──本編最後が「ガール」でしたけど、アンコールでやったチャクラの「まだ」もすごく印象に残ってますよ。すごく疲れてて、澤部くんの声もひっくり返ってるくらいだったけど、やり抜いた感があって感動的だった。

 あの「まだ」は、CD-Rには入らなかったんですけど、CD-Rを買うとYouTubeのリンクがもらえてそこで聴けるというかたちにしてました。

──このライヴあたりを分岐点にして、だんだんまたスカートも調子が上向きになっていった感じですね。9月には、のちに〈月光密造の夜〉シリーズとして定着するミツメ、トリプルファイヤーとのスリーマン〈フラットスリー〉(2012年9月7日、SHELTER)が開催されるし。

 トリプルファイヤーも本当に衝撃的だったんですよ。詩の面でも、音楽の意味でもあんなソリッドなバンドは今まで見たことがなかった。そしてこの3組はフロントマンが1987年生まれだったっていうのもなにかと都合がよかった(笑)。2012年はどん底から始まりましたけど(笑)結果的に刺激的な1年になりましたね。

(2013年に続く)

《澤部渡が選ぶ2012年の漫画と音楽》

漫画:堤谷菜央「Birthday」(単行本『人生は二日だけ』に収録)

スカートとしてCDをリリースして最初の3年ぐらいまではpixivとかコミティア的なものが本当に自分の中で重要で。その時期に読んだ膨大な漫画の中で1冊だけ選ぶならばツツミタニ(堤谷菜央)さんの『Birthday』かな。ずっとpixivでイラストをアップしていたツツミタニさんが漫画を描き始めて、コミティアで作品を発表して、最終的にはコミックリュウの賞まで獲った。自分のことのように嬉しかったですね(笑)。

音楽:どついたるねん『1986』

2012年は自分の周りの世界がいろんな意味で動き出した1年だったと思うんです。あの頃のムードを象徴するような1枚といえばどついたるねんの『1986』じゃないかな。今聴いても古びてないし、アルバムとしての佇まいが美しすぎる。全体的に生き急いでいるのに「DRIVE」みたいな曲が急に入って。それが『リボルバー』における「消えた恋」みたいでそこもいい。

Interview 04
2013

──10年代前半のスカートは、やたらとリリースをしていたという印象もあるんですが、じつは2012年はオリジナル・アルバムは出してなかった。

 ベスト盤(『消失点』)とライヴ盤(『月光密造の夜』)と、〈COMITIA〉への出展開始から作るようになった一連のCD-R(『COMITIA 99』~)とか、関連リリースがやたら出た年だったんです。そのなかでできていった曲が、アルバム『ひみつ』(2013年3月3日)の核になっていきました。「おばけのピアノ」も「セブンスター」も「夜のめじるし」も『COMITIA』シリーズに入ってるし。2012年は、いい新曲が書ける打率がわりといい時期でした。

──しんどさもあったけど、後半に向けて徐々に復調していったのが2012年だったという話でしたね。

 ライブも楽しくなってきた時期だった気がしますね。

──2013年の年明けに早速大舞台がありました。岸野雄一さん主催で、新年恒例になっている投げ銭ライヴで、なんとスパークスとの対バン(2013年1月11日、TSUTAYA O-WEST、OUT ONE DISC presents 〈君ともう一段階仲良くなりたいと僕は考えている〉)。

 スパークスはシークレットだったんですよ。あれはうれしかった!

──あの年のラインアップはいま考えてもすごかった。

 ワッツ・タワーズ、スパークス、チャン・ギハと顔たち、スカートでしたから。僕らも気合い入れてフェンダー・ローズの実機を運び入れましたもん。そのすぐあとくらいで、Homecomingsと初めて会ったんじゃないかなあ。

──ホムカミの最初のEP『Homecoming with me?』(2013年6月)もまだ出てない頃ですよね。

 彼らが結成半年くらいの時に対バンしてるんですよ。京都METROであった昆虫キッズの『こおった夢を溶かすように』のレコ発イベントで。

──クラブイベント〈Homesick〉ですね(1月13日)。

 そうでした! あのときの京都からの帰りがとんでもない大雪で、家に帰るのに24時間かかったんだ。

──2月には〈月刊ウォンブ〉(2月25日、渋谷WOMB)に出てますね。イルリメ、森は生きている、青葉市子+平賀さち枝、スカート。

 〈月刊ウォンブ〉は楽しかったな。『ひみつ』が出る直前で「今度出る新しいアルバムから」と前置きして「おばけのピアノ」やった気がしますね。

──確かに直前でした。3月3日に『ひみつ』がカチュカ・サウンズからリリースされてます。イラストは漫画家の森雅之さん。

 イラストを森雅之先生にお願いしたという話はあちこちでしているんですけど、『ひみつ』は、デザインをトーベヤンソン・ニューヨークで一緒だった森敬太さんに初めてやってもらった作品でもあるんです。森さんにはいまは最初からディレクションをお願いしているんですけど、まだこの段階ではそこまで深い関わり方ではなくて。僕から「イラストもできているんですけど、ここからどうしましょう……」みたいな相談をして、デザインに定着させてくれたという感じでした。

──『ストーリー』が評判よかったから、レーベルからも声がかかったりしてたんじゃないかと思うんですけど。

 じつは『ひみつ』を作ってるとき、あるレーベルから「うちで出さないか」と声がかかったんです。話を聞きに行ったときに、いま何枚売れてるのかと聞かれたので正直に答えたら、「うちならそれを倍にします!」って言われたんです。でも、その反応をなんとなくうさん臭く感じてしまって(笑)。
 そのあと、別のタイミングで社長(角張)と話したときに、また「いま何枚売れてんの?」って聞かれたんですよ。僕の言った枚数を聞いて社長は「すごいね、うちでもそんなに売れてる人は珍しいよ。それを倍にする、とか俺は言えないなー」って。そのとき、僕は「前にあるレーベルの人と話してこんなやりとりがあった」なんてことは社長にはまったく言ってないんですよ。そのときの反応に対して、僕は「あー、この人は信用できる」と感じてました。

──その記憶がのちのちまでつながっているという。

 あと、この年で大きかったことといえば〈NANO-MUGEN CIRCUIT 2013〉(6月14日、京都KBSホール)に出たこと。ゴッチさんに呼ばれて、弾き語りで出ました。あれは「認められた」という感じがして、自分のなかでも結構でかかったです。

──この頃は、スカートが東京以外でやることもまだまだ珍しかったですもんね。

 そういえば、当時J-POPのCDを買って遠征のBGMのお供にする、というのが流行っていたんです。その中の一枚だったのがCHAGE and ASKAの『SUPER BEST 2』。発表した年代順に楽曲が収録されているベスト盤だったんですけど、最初のうちは派手な音使いの曲が多くてそっちに耳がいくのでいたずらにテンションあがるんですよ。でもアルバムが進んで時代が最近に近づいてきたら「なんか様子がおかしいぞ」と思えてきて。いまだによく覚えてるんですけど、ナガシマスパーランドに近いサービスエリアに止めたところで「Trip」って曲(1988年)がかかったときのことです。「これはとんでもないものを聴いてしまってる!」みたいな気持ちになってしまいました。

──チャゲアスにハマった場所と瞬間が特定できてるのもすごい(笑)

 そこからどんどんチャゲアスにハマって、〈NANO-MUGEN〉に向かう新幹線ではレンタルしたチャゲアスのベストを聴いてました。「天気予報の恋人」(1989年)が始まったとき、それまでうとうとしてたのにいっぺんに目が覚めたのも覚えてます。2013年はすごい勢いでチャゲアスを集めていきましたね。

──〈NANO-MUGEN〉の直後くらいに、DJしてる澤部くんの姿がSNSでバズったことがありましたね。あのときもチャゲアスかけてましたっけ?

 嫁入りランド+PR0P0SE「しあわせになろうよ」のリリパでしたよね(6月22日、TIME OUT CAFE&DINER)。あれは岡村靖幸の「イケナイコトカイ」をかけてるときの写真じゃなかったかな? まだチャゲアスはかけてない気がします。タイミング的には全然ありうることなんですが。その頃、チャゲアスの名刺入れとか買ってますしね。裏を取ってみますね(とスマホをチェック)。あ、光GENJIはかけてるけど、チャゲアスはかけてない。トシちゃん、光GENJI、少年隊などをかけてました(笑)

──なるほど(笑)。トーベヤンソン・ニューヨークも、この年、初の正式リリースがありましたもんね。

 EP『ロシアン・ブルー』(11月)ですね。10月(19日)にはWWWでレコ発のイベント〈ジオラマミュージックフェア〉もありました。

──あれはすごいメンバーのイベントでした。トーベヤンソン・ニューヨーク、(((さらうんど)))、tofubeats、cero、嫁入りランド、スカート、PR0P0SE、error403 & U-zhaan、DJでokadada、STAG、VJでサヌキナオヤ。漫画家さんのフリマもやってたし。お客さんもものすごく入りましたよね。

 第二回(2015年)は集客に若干苦労したんですが、この年はすごかったです。2013年は後半もいろいろありましたね。川本真琴さんがワンマンライヴ(11月19日)で「ストーリー」をカヴァーしてくれたり、12月に出たカーネーションの30周年を祝うトリビュート・アルバム『なんできみはぼくよりぼくのことくわしいの?』 に僕と勇介で発起人として関わったり。7月に出た(((さらうんど)))のセカンド・アルバム『NEW AGE』収録の「Neon Tetra」で曲提供もしました(作詞:鴨田潤)。ムーンライダーズの『モダーン・ミュージック スペシャル・エディション』(11月)では「Virginity」のリミックスに参加。スカートが認められてるという実感が、ガンガン来てました。あと何があったかな……? ああ、この年の9月に水色のリッケンバッカー買ってる!

──いまも使い続けてるあの名品!

 水色のカラーのは僕が中三の頃に出たんです。日本に24本しか入ってないという触れ込みで、見たときから欲しくて仕方なかったんですけど値段も高かったし、当時はどうにもならないと思ってました。この年買えたのは、たまたま見つけたときと僕の財政状況が合致したからです。通販サイトに新入荷で出てたので即電話して、現金で買いました。リッケンで最初に録ったのはムーンライダーズのリミックスでした。最初にライヴで使ったのは晴れ豆(晴れたら空に豆まいて)で、2013年9月19日。奇妙礼太郎さんとのツーマンでした!

──小ネタも多いし、ライヴや仕事での出会いも多い。まさに充実の一年という気がします。

 ミュージシャンとしての収入もなんとか回り出しました。実家を出たのもこの年でしたね。

(2014年に続く)

《澤部渡が選ぶ2013年の漫画と音楽》

漫画:町田洋『惑星9の休日』

実家を出る直前に公園のベンチで読んだ九井諒子さんの「ひきだしにテラリウム」も強烈に記憶に残ってるんですが、翌年の『シリウス』につながっていく、という意味で重要なのはやっぱり町田さん。新宿の紀伊国屋で平積みになってるのを見て「こんなの面白いに決まってんじゃん!」って手に取ったのを覚えています。『シリウス』のジャケット、っていう意味でもそうですけど、ここに収録されている「衛星の夜」から「ワルツがきこえる」の詩を書きましたね。

音楽:CHAGE and ASKA『Double』

実家を出る時に引っ越し業者に頼むお金もないからちまちまと家の車で引っ越しの荷物を運んでいたんですよ。これからどうなっちゃうんだろう、っていう期待と不安の中で毎日のようにキリンジの『Ten』を聴いた。でもインタヴューでの話の流れ上(笑)、選ぶならCHAGE and ASKAの『Double』(2007)。事実上のラストアルバムなんですが1曲目から本当にすごくて。洪水のように生楽器が襲いかかってくるんです。さらに帯を見るとA&Mのロゴが入っているんですよ! 輝いて見えましたね。

Interview 05
2014

──2013年は非常によい年でしたね。

 そうでしたね。言い忘れてましたけど、2013年の7月には『エス・オー・エス』と『ストーリー』のアナログを出してたんですよ。

──そうでしたね! 『消失点』に次ぐアナログで、『ストーリー』は7インチの2枚組でしたね。わがままを聞いてもらえてて、恵まれてるなと思ってました。レコード好きに愛されてるというか。

 2枚組で2400円でしたから、いい時代だったのかもしれませんね(笑)。それで、この年のRECORD STORE DAY(4月19日)に『ひみつ』がアナログになりました。ミックスも変えて、ジャケットは森雅之さんに新たにイラストを書き下ろしていただいて、アナログ用に鈴木慶一さん、曽我部恵一さんにコメントをもらいました。

──その流れは、快進撃としか思えない感じですけど。

 ところが、そうでもないんです。2012、13年は〈COMITIA〉出展時に作っていたCD-R『COMITIA』シリーズの売り上げが結構、スカートの経済を支えていた部分は大きかったんですが、『サイダーの庭』(6月4日)を出したあたりから「これ(デモCD-R販売)って逆効果なのでは?」みたいなことを思いはじめたんです。

──ファンは喜んでましたけどね。

 『サイダーの庭』を出したあとかな。ファンの人に声をかけられたんですけど、「『サイダーの庭』まだ買えてないんですけど今度買います」みたいなことを言われて。それで「あれ? 今度?」って思ったんです。『COMITIA』シリーズは買ってると言ってたかな。もしかしたら、それで先にデモを聴いて満足しちゃってるから、完成版のスタジオ・ヴァージョンだとしても曲としてはほとんど知ってるし、そんなCDはあんまり楽しくないのかも?

──あー、なるほど。制作過程から全見せしてたがゆえの弊害というか。

 それで〈COMITIA〉に出るのをしばらくやめようと思ったんです。CD-Rも『COMITIA109』(8月31日)で、いったんひと区切りつけました。『109』の内容をデモじゃなくて弾き語りにしたのは、そういう理由だったんです。

──そんな葛藤があっての弾き語り盤だったとは。

 実際、『サイダーの庭』は自分のなかでは結構手応えのある作品だったんだけど、思ったより反応が鈍かったんです。タイトル曲の「サイダーの庭」とか、すごいいい曲できた実感があったし、録音もいままでよりよくできた。ジャケット・イラストもCDでは初めてのツチカさんだったし。だけど、そのわりには発売後の反応がいまひとつに思えて、またちょっと心が折れた感じになりましたね。

──『サイダーの庭』のとき、ぼくが取材しましたけど、あのときも宣伝まで含めてひとりでやり続けてきたことの疲れ、みたいな話を雑談のなかで聞いた記憶がありますね。

 『サイダーの庭』リリース以降、気持ち的にはしばらく暗雲立ち込めていましたね。11月12日にレコ発のワンマン(〈スカートワンマンショウ -The First Waltz Award-〉)をWWWで抑えちゃってたんですけど、それもどうしたもんかなと思っていました。それで、社長(角張)をつかまえて相談したんです。今、枚数的には売れてないわけじゃないんだけど、なんかスカートとしてはもうここから先がない気がしてる、という話をしました。ぶっちゃけ「どうやったらライヴって成功するんですかね?」みたいな。

──ガチなぶっちゃけ相談を。

 そのときに社長が「じゃあ、うち(カクバリズム)から10インチ出しちゃえばいいじゃん」って提案をくれたんですよ。それをWWWの売りにしたらどうかと。それでできたのが4曲入りのアナログ盤『シリウス』。ジャケット・イラストは町田洋さんにお願いしました。

──もともとの予定では10インチだったのが12インチになったのは、たしか、プレス工場の都合でしたっけ? 10インチのスタンパー(プレス機)が破損したと聞いたような。

 そうそう! 10インチのサイズ感で想定して町田さんにもイラストを発注してたので、リサイズをしてもらったりしたんですけど、結果的には45回転の12インチにできたんで音はよかった。町田さんと仕事できたのもうれしかったです。

──曲としてもあの盤は粒揃いだった。

 「シリウス」は〈COMITIA〉でも出して、ライヴでもうやってましたね。僕の中にも「シリウス」を盤として出したいという気持ちはあったはずですけど、それを「カクバリズムから出したい」と強く言ったかというのは、あんまり覚えてないですね。「うちから出せばいいじゃん」って社長に言われたときに「こういう曲があります」って言ったんじゃないかな? でも、あの12インチは売れたし、あれが出せてよかったっすね。あそこで創作面での気持ちが踏みとどまったんですよ。

──外からは『サイダーの庭』から『シリウス』への流れは快調そのものに見えてたかもしれないけど 、じつはそれなりの苦悩があったという。

 ただ、この年もいいことは結構あったんですよ。京都METROでスカート、ミツメ、トリプルファイヤーのスリーマン〈出張版 月光密造の夜〉(9月21日)。これが初めての地方での〈月光密造の夜〉でしたね。翌年は沖縄にも行くし、この3組でライヴやるのが楽しいなっていう時期でした。川本真琴withゴロニャンずが結成されたのもこの年です。2013年末に亡くなったかしぶち哲郎さんのトリビュート・アルバム『a tribute to Tetsuroh Kashibuchi ~ハバロフスクを訪ねて』(12月17日)に参加しました。

──そういえば、ぼく(松永)が編集した『音楽マンガガイドブック』(DU BOOKS)が出たのが、この年の春でした。澤部くんには書き手として参加してもらったし、澤部渡、森敬太、西村ツチカの3人で〈ジオラマ~ユースカ鼎談〉もやってもらいました。

 漫画絡みの話題だと、この年は宝島社の『このマンガがすごい!』にも初めて参加しました。

──え! 『このマンガがすごい!』もやったことがあるとは!

 ぼくのこのときの個人ランキング1位は……(スマホの履歴をチェック)……田島列島さん『子供はわかってあげない』でした! 2位は町田洋さん『夜とコンクリート』、3位が堤谷菜央さん『人生は二日だけ』、4位は森泉岳土さん『夜よる傍に』、5位がサワミソノさん『ちちゃこい日記』。

──結構攻めたリストですね。

 ちょっと攻めすぎた感じはしますね。結局、『このマンガがすごい!』参加はこの年一回だけで終わってしまったんですけど、声がかかったことはうれしかったですよ。他にも候補として衿沢世衣子さん『新月を左に旋回』、三島芳治さん『レストー夫人』とかもメモに残ってますね。いまは雑誌『フリースタイル』の年イチ企画〈このマンガを読め!〉に毎年参加してます

──漫画読みとしては相変わらず順調そのもの、と。

 そしてスカートとしては、暗黒の2015年がやってくるわけですよ……。いちばんしんどかった年。くぅ……。

(2015年に続く)

《澤部渡が選ぶ2014年の漫画と音楽》

漫画:田島列島『子供はわかってあげない』

実家に帰ったついでに西台駅前にある本屋にふらっと寄ったとき、新刊として並んでいてその背表紙にピンと来たんですよ。その時その本屋のどこに並んでたかとかも含めて鮮明に思い出せますね。もう「呼ばれた」っていう感じ(笑)。そうしたら装丁は森敬太さんだった! yes, mama ok?のライヴが終わった後、みんなフロアに出ちゃって誰もいなくなったUFO CLUBの楽屋で最終話を読んだんです。なんだかミスマッチなんだけどあのときの自分にはこれ以上ないシチュエーションだった。

音楽:昆虫キッズ『BLUE GHOST』

ある時、昆虫キッズがライヴでこのアルバムの1曲目を新曲として演奏していたんです。ステージ上では確かタイトルも言わなかったんじゃないかな。それで、あまりにもいい曲だったからタイトルを知りたくなって終演後にPAの卓に置いてあるセットリストを覗き込んだら「GOOD LUCK」って書いてあった。あれは完璧な瞬間でしたよ。このアルバムは結果的に昆虫キッズのラスト・アルバムになっちゃったけど、「やりきったんだな」って素直に思えたのが変な話、ちょっとだけ嬉しかったのかもしれません。

Interview 06
2015

──スカート史上最悪の1年がこの年と……。

 最悪というか、2015年は、とにかくお金がなかったんです(笑)。お金がなくなったのは、なんでだろう? 『サイダーの庭』を出すくらいまでは、旧譜の売り上げもそれなりにあったんで、暮らせていたんです。

──自主レーベル〈カチュカ・サウンズ〉で、アルバムやCD-R作品を自分で製造してたわけだから、その分、収入もダイレクトだったのに。それが変わってきた?

 だんだんその売り上げもばらつきが出てきたのかな。(スカートが)届くところにはもう届ききっちゃったんだなと思ったんです。あと、決定的な事件としては、この年に喉を痛めちゃったんですよ。急性扁桃炎だったんですけど、4月の京都のUrBANGUILDでのワンマンのキャンセル代を払ったり、何本かキャンセルせざるをえなくなっちゃって。そういうこともあって急にがくんと収支のバランスが崩れて、「さあ、どうしよう」みたいな感じになったのも覚えてますね。プライベート面でもいろいろなことで頭が回らなくなって、ぼんやりとする時間が増えていきました。

──てっきりカクバリズムから2014年に出した12インチ『シリウス』がいい追い風になってたと思ってました。

 いやー。日記を見返したら、この頃のぼくは、とにかく“CD-Rを焼く人”でしたね(笑)

──とはいえ、スカートとして初のワンマンライヴと銘打った〈スカートワンマンショウ -The First Waltz Award-〉(2014年11月12日、渋谷WWW)も大盛況だったはずです。

 2月には、そのワンマンをライヴ盤にした『The First Waltz Award』を〈COMITIA 111〉で先行リリースしました。

──ライヴ・アルバムのタイトルにもなりましたけど、あのネーミングは秀逸でしたよね。もしかしてもう知らないかもしれない世代のために説明すると、小沢健二のソロ・デビュー・ライヴのタイトルだった〈ザ・ファースト・ワルツ〉(1993年6月19日、日比谷野外音楽堂)と、Corneliusのファースト・アルバム『The First Question Award』(1994年2月)の合わせ技。強引といえば強引だけど、ばっちりハマりました。

 あの日のライヴのタイトルは、もう本当に熊谷耕自が出してくれた案に感謝ですよ。最初は僕が「(小沢健二の)『ザ・ファースト・ワルツ』みたいなタイトルにしたいんだよね」って言ったら、「それだったら(『The First Question Award』も)足しちゃえばいいじゃん」って言ったんです。あのアイデアには衝撃を受けました。感動しましたもん。

──そもそも『ザ・ファースト・ワルツ』ってタイトルに特別な思い入れはあったんですか?

 なかったんですけど、ただ「今日が最初のワンマンライヴだ。ここからまた新しいスカートをはじめるぞ」ぐらいの気持ちにしたいと思ったんですよ。それで、何かはじまりを示す引用ができないかなと考えて。でも、さすがにそのまますぎてダメかなと言ってたところへの熊谷案だったんです。

──強引といえば強引だけど、ばっちりハマりました。あのライヴ盤もすごくいいですよね。

 ぼくもそう思います。あれはいいですよね。インディー時代の総決算的なところもある。あのライヴで、シマダボーイにもゲストで半分くらい参加してもらってるんですよ。

──シマダボーイはどういう経緯で一緒にやることになったんでしたっけ?

 すでにシマダボーイには『シリウス』のレコーディングで「回想」に参加してもらってました。もともと2013年くらいに、どついたるねんとフジロッ久(仮)から派生したメンツでD-SQUAREというフュージョンバンドを組むという話があり、そのギタリストとしてぼくが誘われていたんです。結局、人前での演奏はしないまま立ち消えになってしまったんですが(笑)。一回だけスタジオ入りしたときにメンバーにシマダボーイがいて、初めて会ったんです。オカダダくんと一緒につくった「回想」をバンドでやるときは絶対パーカッションが必要と思っていたので、「じゃあ誘ってみようかな」みたいな感じでした。NATURE DANGER GANGの人とスカートが一緒にやるのはおもしろいだろうなと思ったし。

──「スカートのライヴにNATURE DANGER GANGの人が出てる!」と思ったの覚えてますね。怖そうだったから、ぼくはシマダボーイとしばらく話せなかった(笑)

 うちのバンドではいちばん真面目なやつなんですけどね(笑)

──2012年5月のWWWでMC.sirafuがゲストでトランペットやったりしていたこともあったから、シマダボーイもこの日限りのゲストかなとも思ってたんですが、いまや欠かせないメンバーとして定着したという。この日の演奏でもすごくハマって、グルーヴ出してましたもんね。これ以前のライヴ盤と聴き比べてもよくわかります。

 そういえば『The First Waltz Award』のミックスは、お店を閉めちゃった後のがらんとしたミュージックオルグでやりました。黄金町の試聴室にもらわれることになったアップライトピアノが搬出される前で、ミックスの空き時間にそのピアノで「ストーリーテラーになりたい」の原型を書いたという思い出がありますね。

──オルグは2014年の12月いっぱいで閉店だったんですよね。あのハコが2010年代前半には重要だったこと、いまはもう知らないって人も少なくないでしょうね。確か、閉店直前にスカートもレア曲だけをやるライヴ、やってましたよね。あれも、総決算っぽい出来事でした。

 〈The First Waltz Award of The Moon〉(2014年12月29日) ですね。11月のワンマンでやれなかった曲だけをやるっていうコンセプトでした。多分、あの晩演奏したきり一度もやってないような曲がたくさんある(笑)。オルグで2枚アルバムを作った身としては、なくなるのはすごく寂しかったですよ。ここでいろんな人と出会ったし。

──名古屋のクラブクアトロで、ミツメ、トリプルファイヤーとの〈出張版月光密造の夜 名古屋編〉(2015年8月24日)が行われたのもこの年ですね。このときウェブマガジン〈LIVERARY〉に掲載されたの街歩き記事(【SPECIAL INTERVIEW】スカート・澤部、 ミツメ・川辺、 トリプルファイヤー・吉田、東京インディー三銃士がぶらり名古屋観光!?三者三様の音楽性と相思相愛の関係性。)がネタ元となって“東京インディー三銃士”という強力ワードが生まれたました。

 東京インディーって難しい言葉ですよね(笑)。記憶が曖昧なんですけど、たぶん、ぼくらよりあとに出てきたバンドが世間の“東京インディー”にあたるんじゃないかなっていうイメージ。だからそう言われるとちょっとどう対応していいのかわからなかったんだけど“三銃士”って後ろについた瞬間にすべてがどうでもよくなった(笑)。あれは痛快でしたね。実際このときのライヴは、クアトロの前にやった3人での弾き語りイベント〈月光密造前夜祭~渡と素、ときどき靖直~〉(2015年8月11日、西アサヒ)も含め、すごく楽しかったのを覚えています。

──なかなか進展しないカクバリズムとの関係はこの時期どうなっていたんですか?

 『シリウス』をリリースはしたんですけど、まだ所属していたわけではなく。「つきあってるの? つきあってないの?」みたいな関係がしばらく続いてました。「このあと、どうなるんですか? アルバムとか作ってくれるんですか?」みたいなことも社長(角張)に直接聞いたりしてましたね。

──ラブコメか(笑)

 社長には、当時「打順がまだ回ってきてない気がするんだよな」みたいなことを言われたのは覚えてますね。「CALL」という新曲ができて、それを聴いてもらってから、「よーし、やろうか」と言ってくれたんじゃなかったかな。それで、この年の夏くらいには「CALL」は録ってましたから。

──やっぱり、あの曲がドアを開けた。

 社長とは結構長くお互いに知ってて、『シリウス』で一回付き合いかけて、でもまだまだはっきりしなくて、ようやく「CALL」で交際開始という、まさに『イエスタデイをうたって』(冬目景)的な展開でした(笑)。そして、2015年の12月6日という自分の誕生日を、アルバムを録ってるレコーディングスタジオで迎えられた。そこからは立て続けにいいことが起きました。

──いまも良好な関係が続く藤井隆さんとの出会いもこの頃でしたよね。

 12月12日にtofubeatsくんのイベント(〈12+12(tofu+tofu)night〉~藤井隆 “AUDIO VISUAL” & tofubeats "POSITIVE" after party!)に出たときです。翌13日には、yes, mama ok?のライヴに出て、16日にはこの翌年にすごいことになるスピッツのレコーディングがあり、20日には鈴木慶一さんのミュージシャン生活45周年記念ライブにゲストミュージシャンとして招いてもらい、24日には川本真琴さんのライブにも出ました。これからとこれまでがどっちもちゃんとあった、っていうのが嬉しかった。一年分の厄が落ちたような12月でしたね。最後も自分のアルバムのストリングス録りで1年が終わりましたし。

──最悪の1年の話を聞くはずだったのに、最後はなんだか最高の1年になってますが。

 まあ、とにかく「CALL」という一曲が書けたのが、やっぱり自分の歴史でも相当に大きいことでした。「ストーリー」とおなじくらい力強い曲が書けるとは自分でも思ってなかったから。

(2016年に続く)

《澤部渡が選ぶ2015年の漫画と音楽》

漫画:衿沢世衣子『ちづかマップ』

講談社版と小学館版があって、これは小学館版の3巻の話。講談社版の頃から大好きな漫画なんですけど、特に兵庫の坂越にいく話があって、その話がもう、最高で。衿沢さんの漫画はふとしたコマ割りとかセリフに気持ちをぐっと掴まれるんです。「エモい」って言っちゃっていいかもしれない。読んでてエモくなりすぎてゼキさんに「読んだ?」って電話しちゃうぐらいエモかった。漫画読んで昂ぶって人に電話しちゃう、みたいな経験ってあんまりなかったから、そういう意味でも思い出深いですね(笑)

音楽:Paul McCartney『Chaos and Creation In The Backyard』

ポールって大好きなアルバムはもちろんあったけどそんなに真面目に聴いてこなかった。でもこの年の〈OUT THERE JAPAN TOUR〉を気まぐれに見に行ったんですよ。それでポール熱があがって、ココナッツディスク吉祥寺店にあったこのアルバムをなんとなく買ったんです。近年の作品だしあんまり期待していなかったんだけど再生した途端、素晴らしすぎてオーディオの前から立ったまま動けなくなってしまった。そして聴き終わったらCDのトータルタイムが46分! 泣きそうになりました。確実に『CALL』に影響を与えたと思います。

Interview 07
2016

──2015年の最後はアルバム『CALL』用のストリングスを録音していたという話でしたね。

 「CALL」は、最初は7インチにしてカクバリズムから出したらいいんじゃないか、みたいな話をぼくから社長には提案してたんですよ。なんでアルバムになったんだったかな? アルバムにできるくらいの曲は揃ってはいたんですけど、あるとき急に「じゃあ(アルバムを)やろっか」という話になり、社長の推薦で葛西(敏彦)さんをブッキングしたはず。

──葛西さんがスカートには合ってると思った記憶はぼくもあるんですよね。それを誰と話したかまでは覚えてないけど。シャキーンとした硬質な音が合うんじゃないか、みたいなことを思っていたはず。

 葛西さんのことは、森は生きているのアルバムで聴いて認識してました。すごい音を録る人というイメージでしたね。でも、自分のレコーディングで一緒にやるまでは、ライヴの現場とかでも話をしたりはしてなかったと思いますよ、たぶん。

──本当にスタジオで「はじめまして」だったんですね。

 そうそう。葛西さんは確かその日スカートのレコーディングをやるっていうことすら知らなかったはず(笑)。だから打ち合わせもなし(笑)!

──葛西さんとはその後もずっとレコーディングを続けてますけど、最初に手を合わせたときの印象は覚えてます?

 確か最初のセッションで4曲くらい録ったんですよ。「CALL」「ワルツがきこえる」「アンダーカレント」「ストーリーテラーになりたい」だったかな?

 「ワルツがきこえる」でアコギを録ってもらったんですよ。その録れ音がすごいよくて、それで「アコギが入ってるアルバムにしようかな」みたいなことを思った気がする。それが発展して、『20/20』ではもっとアコギを推し進めたというイメージがあります。

──そういう意味では、変な言い方かもしれないけど、澤部くんは「やっぱ宅録でしょ」みたいな感覚からは、わりと離れてますよね。

 やっぱり『エス・オー・エス』で宅録はやりきった、というのがありました。あれをもう一回やろうとしてもできない気がしてたし、そのあとバンドでやった『ストーリー』を出してバッと評判になったということは世の中もそういうものを求めているんじゃないかということは、当時かなり思ったんですよね。『エス・オー・エス』みたいなこともやりたいけど、こればっかりやってたらダメなんだなということがよくわかったというか(笑)。ただ、特に『CALL』以降はアルバムに1曲くらいはそういう(宅録的な)曲を入れようとは思ってやってます。

──そして、4月20日、ついにカクバリズムからの初アルバムとなった『CALL』が出ました。

 『CALL』の発売が4月20日で、その翌週の27日には、僕が口笛で参加したスピッツのシングル「みなと」がリリースされました。レコーディング自体は2015年の暮れだったんですが、リリース・タイミングが運よくほぼ同時期になって。

──そうでしたね。そもそも、なぜスピッツのレコーディングに呼ばれたんでしたっけ?

 あのオファー自体も偶然というか。2013年に来日した元ポウジーズのケン・ストリングフェローのライヴ(5月11日、渋谷Last Waltz/共演:直枝政広、柴田聡子、スカート)で、直枝(政広)さんが「市民プール」をやるときに、僕がステージに上げられて口笛を吹くことになったんですよ。それを、お客さんとして来ていたスピッツのディレクターの竹内修さんがたまたま見ていたんです。それを「みなと」のレコーディングにあたって思い出した、というのがきっかけでした。

──そのライヴ自体からレコーディングまでの間に2年半経っていたとは。よくぞ思い出してくれたというか、それくらいのインパクトだったのかも。

 しかもあの曲で『Mステ』(4月29日)にも口笛とタンバリンで出演できた(翌週には特別取材も放映され、『ミュージックステーション』テーマ曲を口笛で披露)。あれは本当にデカかったです。おかげさまで『CALL』も注目されたと思うし、辛くて長いと感じてた2015年のご褒美が全部来たと思いました(笑)。引きが強いというか、スカートは運だけでここまで来たというのがよくわかります(笑)

──この時期で、いろんな潮目が変わったという感じもありましたよね。スカートも「CALL」という曲ができて次のステップが見えてきた感じだったし、2010年代のインディー・シーンで注目されていた人たちもひと通り作品をリリースして。スカートにも曲の発注とかが来るようになった頃ですよね。

 そうですね。「アンダーカレント」も、もともと人のために書いた曲だったし。人の曲を初めて書いたのは(((さらうんど)))の「Neon Tetra」(2013年7月)だったと思うんですけど。

──『CALL』のリリースパーティー・ライヴ(5月27日、渋谷WWW)も印象的でしたよ。最後の最後、アンコールで、タイトルもまだ付いてなかった「静かな夜がいい」をやって。

 『CALL』のアルバムのミックス中に、思いがけずできた新曲だったんです。社長には「なんでもうちょっと早くこの曲作ってくれなかったの!」って言われました(笑)。あの曲をあの日のライヴでやったときの手応えというのは相当大きかったです。

──ね。「これは次のアルバムまで待ってる場合じゃない、一刻も早くリリースしたほうがいい」と思いましたよ。

 レコ発ツアーが終わった6月にはもうアルバムのことはひと区切りつけて、「静かな夜がいい」をシングルで出すためのレコーディングを8月にははじめていたと思います。

──あと、この年はなんと『SMAPXSMAP』で澤部くんが音楽担当をした回があった。

 こんなことがあっていいのか(笑)。BGMすら録り下ろしだなんて! テレビはスケールが違う、って思いましたね。外仕事が増えてきてとってもワクワクしていた時期でもありました。

──他にも南波志帆さんのシングルでラップしたり、資生堂のwebムービーに新曲(「キミの顔」)を提供したり。

 昆虫キッズでサックス吹かされた流れで川本真琴さんのレコーディングでサックス吹いたり、yes, mama ok?では最初ベースで今はドラムですし、それこそ口笛だってやりましたよ。でもまさかラップのオファーが来るとは! 絶対に聴き返したくないけど(笑)、本当にとっても楽しかったですね。「キミの顔」はとっても気に入っているんですよ。姫乃たまさんのコーラスもとってもいいですよね。制作としては完全に詩先だったし、なんなら映像尺先だった(笑)。この言葉は何秒のカット、とかそういうのがシーンによっては決まっていたんじゃなかったかな。そこにめがけて曲を作るっていうのが楽しかったんですよね。

──そして11月23日に、初のシングルとして「静かな夜がいい」が出ました。これは本当にいい流れだなってぼくも感じてましたね。

 『CALL』で自分にできることは全部やり尽くしたと思っちゃってたんですけど、「静かな夜がいい」ができてみたら、「そうか、こういうまだやってないこともあったんだ」と自分で発見した、みたいな。「もうちょっとなんとかなるんだな」と思えた一曲でしたね。

(2017年に続く)

《澤部渡が選ぶ2016年の漫画と音楽》

漫画:小森羊仔『木陰くんは魔女。』

小森羊仔さんは最初の単行本『シリウスと繭』の頃から好きなんです。『シリウス』ってタイトルつけたときはそう思ってなかったけど影響は絶対受けてるはず。「繊細」だとか「心の機微を」だとかっていう少女漫画の常套句でいくらでも言えるんだけどそうさせないなにかがずっとあって。で、そうさせないなにかが爆発したのが「木陰くんは魔女。」だった。こういうコマ割りの曲を書きたい、って改めて思わされましたね。

音楽:スピッツ『醒めない』

2016年はやっぱりこれじゃないかな! 自分の演奏が入ったアルバムだ、っていうことを差し引いてもめちゃくちゃ好きなアルバムです。ミツメの川辺くんとアルバム聴いた興奮をLINEしあった(笑)。この年はサニーデイ・サービスの『Dance To You』も、ANATAKIKOUの『3,2,1,○』も最高でした。『CALL』で燃え尽きを感じていた時に、大好きな先輩がどんどん更新していく、っていうのは勝手に励まされていましたよ。

Interview 08
2017

──2017年の話題っていうと、なんといってもPONY CANYONからのメジャー・デビューになりますね。アルバム『20/20』が10月に発売されます。

 2016年は本当にいろんなことがうまく行った一年でした。そのいい流れから2017年のメジャーデビューに至るというのもよかったと思います。ただ、『20/20』は、もともとカクバリズムからリリースする予定で進めていたんですよね。

──そういえばそうでしたね。

 年が明けて、レコーディングをしている途中で、PONY CANYONからオファーがあった頃にはすでにアルバムの曲も全部揃っていたんです。その話にカクバリズムのスタッフがちょっとうろたえて、「もっと明るい曲がないとダメなんじゃないか? もっと売れそうな曲は?」みたいになった記憶がありますね(笑)。でも、それをPONY CANYONのA&Rが「このままでいいんです」と言ってくれて、それであのかたちで世に出ました。

──『20/20』には映像の世界に進出したスカートの重要な曲が2曲入ってます。それがこの年前半のメイン・エピソードになるのかな。テレビドラマ『山田孝之のカンヌ映画祭』(テレビ東京系、2017年1月6日~)のエンディングテーマだった「ランプトン」、4月に公開された瀬田なつき監督の映画『PARKS』の挿入曲「離れて暮らす二人のために」。

 『山田孝之のカンヌ映画祭』がドラマへの提供曲としては初でした。監督の山下(敦弘)さんと松江(哲明)さんからオファーが来たんです。ぼくの家に来てもらって打ち合わせとかしましたよ。そのときはほとんど劇伴のほうの打ち合わせが主で、「エンディングもお願いしたい」という話だったんです。

──へえ、じゃあオファーとしては「よかったらエンディングも」くらいの感じだったんですか。

 だったと思います。それで「ランプトン」の前に一曲作って送ったんですけど、それだと自分的になんかうまくいってないような気がして、土壇場で「やっぱりもう一曲別のを作んなきゃダメだ」と思って新しく作ったら、「ランプトン」ができたんです。そのボツにした曲はモチーフだけ「標識の影・鉄塔の影」に残ってるかな。で、『PARKS』はトクマルシューゴさんが音楽監修で、声をかけていただいたんです。

──井の頭公園で弾き語りしている青年役で出演もしたという、あれはおいしかったですね。

 あのオファーで「離れて暮らす二人のために」ができたのは、とっても大きかったですね。

──京都のα-STATIONで『NICE POP RADIO』(毎週金曜20時~/通称“ナイポレ”)が始まったのもこの年。わりと早い回でぼくもゲストに出してもらいました。

 自分のラジオ番組だし、すぐ終わるだろう、と本当に好き勝手にかけてましたね。単純計算で、今までで千数百曲かけてます。本当にあの番組は楽しい。選曲はツライんですけどね(笑)

──でも、今年でもう足掛け4年目でしょう? なかなかすごくないですか? radikoが浸透したことで、いまは全国で聴ける番組になってるし。

 番組のための選曲が自分の音楽に役立ってる部分もありますよ。毎回、自分のライブラリーと向き合う日があるという習慣があるのとないのとでは、だいぶ違うと思います。アウトプットするにはインプットしないといけないんでね。昔に比べても音楽を聴く量は増えてると思いますよ。

──まさに「視界良好」な感じの一年ですね。

 でも、2017年は、メジャー・デビューなりのしんどさに結構やられた年でもありました。取材やプロモーションで今までにない忙しさになっちゃって、メジャーというプレッシャーもあって、常に呼吸が浅い、みたいな状態でした。だからライヴで歌ってるときの息継ぎとかもうまくできなくて、喉の調子もどんどん悪くなっちゃって。そういえば最終リハーサルとか半分ぐらい床に突っ伏してた記憶がある(笑)。精神的にも身体的にも『20/20』のツアーはこれまででいちばんきつかったかも。

──確かにこの時期はツイッター見てても、本当にあちこちにプロモーションで行ってて多忙そうだった。ツアーは各地でツーマンというスタイルでやってましたね。

 キャンペーンとかの場に出ると、あらためて「自分は人見知りだったんだな」と気づくという感じでしたね。大人になって自分では、人見知りじゃない感じにできてると思ってたんですよ。本当の自分は人見知りなんだけど、自分の脳にも「自分は人見知りじゃない」と思い込ませていた部分があった。それが『20/20』のプロモーション中に自分のなかで爆発しちゃった感じもありましたね。そこから2018年の「遠い春」のツアーあたりまでは、自分のなかでは「ライヴをどうやって全力でやっていけるのか」みたいな悩みがちょっとあった時期が続きましたね。

──このタイミングで自分の本質と向き合ったという……。

 スカートという名前の由来について何回説明しなくちゃいけないんだろう、とか思うことはありましたけどね(笑)。でも、そんな変な取材とかはなかったんですよ。どこに行っても、みなさん興味を持って話を聞いてくれましたし。取材がたくさん入るのは初めての体験だったので、つらかったけど、結果的には楽しかった。「視界良好」がFM802のヘビーローテーションになったのもすごくうれしい出来事でした。

──あと、2017年で忘れちゃいけないのは初のフジロックですね! 苗場食堂に出ました(7月28日)。

 そうでした。まだ『20/20』が出る前でした。あのときのライヴは演奏的には粗かったんですけど、楽しかったですね。トリプルファイヤーも確か日曜日とかに出て、そういうのも含めてよかったですね。2016、2017は「報われた」感のあるイメージでした。それに、この年は20代最後の年でもあったんですよ。29歳でメジャー・デビューのアルバムが出せて本当によかった。『20/20』には「静かな夜がいい」「視界良好」「ランプトン」も入っているし、好きなアルバムなんですよね。不思議なもので、こうやって振り返ってみると、どれも好きなアルバムばっかりなんですけどね(笑)

(2018年に続く)

《澤部渡が選ぶ2017年の漫画と音楽》

漫画:森田るい『我らコンタクティ。』

この表紙が面白くないわけないでしょ、って思いながら買って、コミティアに向かう電車で読んだんですよ。絵の不気味さとキュートさも抜群だったけど、なんていうか久しぶりに物語を浴びた、っていう気持ちになった。ものすごい気持ちで国際展示場正門駅のホームで読み切って、ものすごい気持ちでコミティアを徘徊したのは本当にいい思い出です。

音楽:Dennis Lambert『Bags and Things』

ある日、ココナッツディスクの池袋店に寄ったらたまたま古市コータローさんも来店されてて、古井戸の『酔醒』を薦めてもらったりしたんですけど、その時にこれも飾ってあって、ジャケットが素晴らしくて試聴させてもらったんですけど5秒で「こりゃ買うわ!」って針をあげましたね。作曲家としてもデニス・ランバートってあんまり意識したこともなかったのに、こんなに好きなレコードが世界にはまだまだあるんだ、って本当に嬉しくなったのを覚えていますね。

Interview 09
2018

──2018年のスカートは、映画の曲をたくさん作ってたイメージです。

 「遠い春」(映画『高崎グラフィティ』主題歌)や「君がいるなら」(映画『そらのレストラン』主題歌)と「花束にかえて」(同挿入歌)とか。『恋は雨上がりのように』へのインスト曲提供というのもありました。テレビだと、「忘却のサチコ」(テレビ東京系ドラマ『忘却のサチコ』主題歌)も。

──公開順としては『恋は雨上がりのように』(5月)、『高崎グラフィティ』(8月)、『忘却のサチコ』(10~12月)『そらのレストラン』(19年1月)って流れなんですが、仕事順としては『そらのレストラン』がいちばん早かったんですよね。

 そうなんです。話自体は前の年の12月にきていて、2018年の最初にやってたのが『そらのレストラン』の曲を書くという仕事でした。それでまずできたのが「花束にかえて」。でも、いい曲すぎるけど、エンディングには絶対向かないなー、と思って、別の曲を書こうと思ったんです。ちょうどその頃、同時進行で『恋は雨上がりのように』へのインスト曲提供もやってたんですけど、いくつかデモを作って先方に送ったけどボツになったものもあって。そのボツになったデモで使っていたコード進行をもとにして作ってみたら、「君がいるなら」になったという流れでした。

──17年から映画やテレビへの曲提供が続いているのは、澤部くんにとっても新鮮な経験だったと思うんですが。

 2017、2018年はそういう年でしたね。特に2018年は、お題があって人のために曲を書く時期でした。それこそ20歳くらいの頃は、出来不出来は置いといて、ですけど、湧き出るくらいの勢いで曲ができてたんですよ。それが続けていくうちにちょっとずつ「ああいう曲はもう作っちゃったから書けないな」とか「また似たような曲を書いてもしょうがない」という感じになってくる。人間って物事を知るたびに多くを語れなくなっていくんだな、みたいな(笑)。ぼくの場合は、『CALL』を作ってやりきっちゃった感になってたところを、外からの仕事が救ってくれた感じかな。

──映画やテレビを通じて、それまでスカートを知らなかった人たちの目や耳にいちばん届いたという意味では、「忘却のサチコ」ですかね。

 そうでしょうね。「忘却のサチコ」か、「ランプトン」なのかな。「忘却のサチコ」をきっかけにスカートを聴き始めたという人はいたと思いますよ。そういう感触はありました。でも個人的には「遠い春」を書いたということが意外と大きいんですよ。みんな、わりと地味な曲だな、くらいにしか思ってくれないんですけど(笑)。あれはきっと、あとで効く薬みたいな感じかなと思ってるんですけどね。「なんであのときそんなにいい曲と思わなかったんだろう?」って、あとで言ってほしい一曲です。

──それから、この年はメンバーチェンジもありました。

 3月に東京(CLUB QUATTRO)と京都(磔磔)でやったワンマン・ツアー〈eight matchboxes, seventy one cigarettes〉があって、そのあと、ベースが正式に岩崎なおみさんになりました。あのツアーを終えて、いろいろ清算したという気持ちになりましたね。

──弓木英梨乃さんが東京ではゲストで参加して。

 『20/20』のツアーでは得られなかった充実感を取り戻せた感はありました。東京では弦も入れましたし。

──岩崎さんをベーシストとして迎えた理由は?

 もともと、『20/20』でコーラスがある曲が増えて、女性コーラスにライヴでは入ってもらいたいなという話もしていたんですよ。岩崎さんは(鈴木)慶一さんが矢部浩志さん、近藤研二さん、konoreさんと結成したバンド、Contorversial Sparkのベースとして知っていたというのもあるんですが、優介が「なおみちさん(岩崎)がいいんじゃないかな」と提案してくれたというのもありました。それで、まず「君がいるなら」と「花束にかえて」を2月にレコーディングするときに、録音メンバーとしてお願いをしたんです。

──ぼくが岩崎さんが参加したスカートを初めて見たのは、9月に京都であったスカート自主企画〈静かな夜がいい Vol.1〉(9月29日、KYOTO MUSE)でしたね。スカートのフォーマットは保ちつつ、コーラスも増えたし、かなり印象が変わった感じがありました。

 ベースラインも柔軟にいろんなアイデアをくれるんですよ。なおみちさんに入ってもらったことで、ちょっとずつライヴに向かう気持ちも前向きに修正していけたという感じでした。

──以前はスカートの楽屋での風景といえば、いい歳した男たちがひたすらゲームの話ばっかりしてというもので、岩崎さん大丈夫かなと思ってましたが(笑)

 全然大丈夫でした。おかまいなしです(笑)。最初のほうはお互い探り探りだったんで、やっぱりおれって人見知りだなと思ってましたけどね。

──スカートの曲について、岩崎さんから何か言われたりしませんでした? 「難しいね」とか。

 いや、あったかな……。「高田馬場で乗り換えて」ができて、みんなでスタジオでやってみましょうって譜面渡したときに、なおみちさんから「よくこれ覚えて弾けるね」と言割れたのはよく覚えてます(笑)。あの曲はコードが結構変わってるから。

──そうか、「高田馬場で乗り換えて」もこの年でしたね(11月9日からLINE MUSICで配信開始)。あれはDJ MARUKOMEという架空アーティストの音源シリーズ・プロジェクト第2弾で、〈DJ MARUKOME&スカート feat. tofubeats〉が正式なユニット名でした。マルコメは、みなさんご存じのように味噌・大豆食品メーカーとして有名な会社ですが。

 tofuくんとは松永さんが見にきてくれたあの京都のライヴで、ちょろっと打ち合わせをしたんですよ。そのときtofuくんが「ベニー・シングスみたいな曲がいいんじゃないの」と言ってくれて、それとウィングスの「レット・エム・イン(幸せのノック)」を足した感じにしようと思ったんです。

──あのシリーズ、そもそも第一弾がゆるふわギャングで度肝を抜かれてましたけど、澤部くんやtofuくんには何か指定はあったんですか?

 いや、曲は丸投げでしたね(笑)。「広い意味でマルコメっぽくあればいい」くらいの指定でした。だったら、マルコメの東京本社は高田馬場だし、ぼくからしたら高田馬場といえば日常的に使ってる西武新宿線の駅のイメージでした。高田馬場乗り換えの時に西武線のホームではマルコメのメロディが流れるじゃないですか。JRは鉄腕アトムなんですけど、西武線はマルコメ。その高尚じゃない感じというか(笑)。でもそれが本当にいいなと思ってたので、高田馬場での乗り換えをテーマにした曲にしようと。

──いい話! こうやって振り返ると、2018年は翌年に出るアルバム『トワイライト』に入る曲を、いろんな発注を受けながら徐々に揃えていった時期ともいえますね。

 そうですね。でも、自分としてはアルバムに着々と向かってるというよりは、発注があったから曲をどんどん作っていた感じで、むしろ「次のアルバムどうしよう?」みたいな感じでしたけどね。

(2019年に続く)

《澤部渡が選ぶ2018年の漫画と音楽》

漫画:鶴谷香央理『メタモルフォーゼの縁側』

2018年は鶴谷さんの初単行本が出た、っていうのが本当に嬉しかったです。ウラモトユウコさんを追いかけていたら「しりとりコ」という企画をされていると知って、そこに鶴谷さんが参加されていたのをきっかけに読み始めたはずです。「75歳のおばあちゃんがBLにハマる」って乱暴に言おうと思えば言えちゃうんですけど、とにかくこの作品は「漫画」なんですよ。絵だけじゃなくセリフの余白の感じとか。とにかく1巻の3話の終わり方を読んだときは「漫画を読んでいてよかった」って思いましたね。

音楽:Prince『The Rainbow Children』

この年はジャニスの閉店が大きかった。自分のアルバムを卸していたから時々足は運んでいたけどもうずっとレンタルしてなかったんです。でもこの年に90年代以降のプリンスにハマってまたジャニスに通い出したので、そのきっかけになった『The Rainbow Children』かな~。当時はまだワーナー以降のプリンスの作品ってサブスク解禁していなくて、手に入りにくい作品が多かったんですけど、また通い出した直後、そういう入手困難な作品が全部サブスクで解禁されて、そしたらその直後にジャニスの閉店が決まって。一連の流れは結構きましたね。スカートもサブスクをやらざるを得ない、と思ったひとつのきっかけでもありますね……。

Interview 10
2019

──2019年、っていうと去年のことなんですけど、コロナ禍を経て、かなり遠い昔のようにも思えてしまいます。18年からの流れでいうと、「君がいるなら」が主題歌だった映画『そらのレストラン』が1月公開。話題は途切れずに19年に入っていった感じですよね。

 そうですね。アルバムのレコーディングも年明けから取り掛かることに決まってました。だけど、ぼく自身は「曲が足りない! どうしよう?」って感じでした。

──かつては湧き出るようにできていた曲がだんだんできなくなっていった問題が、このときはかなり表面化した。

 そうなんです。ある程度ライヴでもやってきた曲が揃ってからアルバムを作る、というのが『CALL』以前はわりと当たり前でした。「ランプトン」や「私の好きな青」あたりはライヴで一度もやらないでレコーディングしているんです。だから『20/20』ぐらいからレコーディングの締め切りと闘うことが増えたっていう感じ。なので、このときはレコーディングがはじまる前に、ぼくと佐久間さんとなおみちさんの3人でスタジオ入りして、曲を書くためのリハーサルをしましたね。

──リズム隊を加えて入って、一緒に曲を練り上げていくという工程。

 はい。だけど全然できなくて。そしたら佐久間さんが「わかった、じゃあおれら30分くらい外に出るから、ワンフレーズだけでもいいから作って。それをみんなで広げようよ」って言って、ぼくひとりだけにしてくれたんです。そしたらその30分のうちにあれよあれよという間にメロディができて。そのスタジオで原曲ができたのが、結局アルバムのタイトル曲になった「トワイライト」でした。

──追い詰められたところからあの名曲が。

 まあ、家では曲が生まれない時期が来たってことですかね。歳をとったのか、集中力が明らかに衰えていくのを感じますね。だから、それ以降はスタジオに入ってTwitterのタイムラインが静かで、誘惑が少ない深夜に集中して作曲をしてます(笑)

──メジャーでの2作目というプレッシャーもなんとなくあった?

 いや、そういうのはほとんどなかったと思います。単純に「スカートのアルバムを出す」というプレッシャーなんです。絶対に2019年の夏までには出したいと思ってましたし。前のアルバムから2年は絶対空けたくないと思ってたので。ただ、制作が終わったときに、10年間も好きにやってこれたんだし、そろそろ制作は自分ひとりじゃないほうがいいだろうなという気持ちにもなりましたね。

──誰かにプロデュースしてもらうということ?

 その「誰かに任せたい」というのはすごく前向きな感覚なんです。前だったら「自分で思いつくことはもうなにもないから他の人に任せたい」という感じだったんですけど、そうじゃなくて、自分でもやりたいことはあるけど、自分の曲を人に任せることもできるようになってきたんじゃないかなと思うことは多いですよ。そういうスカートも自分でも聴いてみたくなったという感じでした。ただ、そのあとコロナ禍においてまたいろんなことが自分のなかでフラットになっちゃったんで、いまはもうあんまり考えられないですけど。とにかく2019年、そう思っていた瞬間というのはありましたね。

──そして『トワイライト』が6月にリリースされます。ジャケットでは、『メタモルフォーゼの縁側』の鶴谷香央理さんがアートワークというか、架空の漫画のヒトコマという設定なのがじわっと熱かったですね。

 『トワイライト』に関しては、もっと派手なポップな曲を入れたほうがよかったんじゃないかとも思いつつ、あの段階で曲を聴かせるタイプの作品を出せたというのもうれしいことでした。逆に「攻めた」感覚があるというか。

──1曲目の「あの娘が暮らす街(まであとどれくらい?)」はNeggicoのKaedeさんのソロに提供した曲(2017年)のセルフカバーだったんですよね。考えたらKaedeさんとスカートの関係もすっかり長くなりましたね。Kaedeさん自身もこの数年ですっかりアーティスティックな佇まいが自然になった。

 ぼくらの関わりも最初はファンイベントの延長でしたし、正直あんなにいいソロ・アーティストになるとは思ってなかった。ただ、Kaedeさんに曲を書くとなると気持ちが乗るんですよね。もともととっても素敵な声をしているから、ヴォーカリストとしてはすごく魅力的なんです。

──あと、この年の大きなトピックは、FUJI ROCK FESTIVAL 201でのRED MARQUEE出演(7月28日)でしたね。

 やってるときは手応えはまったくといっていいほどなかったですよ。結構ステージの反響とかやりづらさも感じてたんですけど、終わってみたらすごく評判がよかった。あとで録音を自分で聴いても、ぜんぜん不満なところがなかったんです。たぶん、直前まで『トワイライト』のツアーをやってたというのが大きかったんだろうな。とにかく、あのツアーが本当に楽しかったんですよ。スカートの演奏は、いまがいちばんいいなと思うくらいです。

──あのステージはぼくも見ていて感慨深かったですね。2年前の苗場食堂よりも確実に楽曲も演奏も説得力も増していたし。

 6月から7月にかけて全国4箇所をまわった『トワイライト』のツアーは、全部のライヴが自分のなかではとってもうまくいった感覚があったんです。「見にきた人をひとりにさせてるぞ!」みたいな手応えがすごかった。ライヴ盤(『TWILIGHT TOUR AT SHIBUYA CLUB QUATTRO(2019.7.19)』)にしたツアーファイナルの東京公演(7月19日、渋谷クラブクアトロ)では、「アンダーカレント」とかやっても大きく歓声もらったりしたんですけど、「トワイライト」が終わったあとは歓声ひとつ上がらなく、拍手だけが押し寄せてくる、くらいの感触だった。でもそれがすっごいよかったんです。熱い反応は感じるんだけど、お客さんがそれをシーンと聴き入ることで返してくれてる。「そう、これこれ! これがやりたかった!」って気持ちになれたんです。あとで録音をききかえしたら、全然歓声あがってたし、そんなシンとした場面はなかったんですけどね(笑)。

──RED MARQUEEでの「トワイライト」もよかったですよ。

 とにかく、2019年は自分にとってはライヴの収穫が大きい1年でしたね。

──『CALL』以降、2016年くらいから続いてきたスカートのいまのモードの曲たちが、『トワイライト』の楽曲が出揃ったことでライヴにもセットリストとしてようやくきちんと収まったという実感もありました。

 そうかも。そういう感じはしました。

──そういう意味ではこの10年やってきたことがちゃんと「スカートに歴史あり」と思わせてくれてますよ。曲や音楽にとっても時間の経過は必要なんだなと感じました。ムードが変わる新曲ができたときにライヴでやってみんな戸惑ってシンとする、みたいな場面っていくつも見てきたけど、それが時を経ることによっていい方向に収まっていくのを見ることができた。2010年代後半のスカートの色がはっきりできたから、旧曲を再レコーディングした『アナザー・ストーリー』の価値が際立つタイミングにもなったと思うし。

 これからもいい流れになるといいなと思ってます(笑)

──去年の12月には、スカートの主催で〈Town Feeling〉ってイベントをやりましたね(12月19日、新代田FEVER)。共演はどついたるねん、柴田聡子inFIRE。2010年代のいろんな空気を吸って大きくなったり変化した人たちが集う2019年の締めくくり。ミツメ、トリプルファイヤーとやってきた〈月光密造の夜〉とはまた違った感じがしました。

 そうですね。揉まれて揉まれて、紆余曲折あって、ここまでたどりつた3組みたいな(笑)。『トワイライト』のツアーで対バンに呼びたかったけど呼べなかったアーティストを呼んでやろう、というイベントでもありました。あれは楽しかった! またやりたいなー。いい組み合わせでしたよ。

(2020年に続く)

《澤部渡が選ぶ2019年の漫画と音楽》

漫画:ほそやゆきの『鹿の足』

2019年は迷うんですけど…ほそやゆきのさんの「鹿の足」かな。たいぼくさんっていうコミティアとかで作品発表されてるイカした作家さんがいまして、そのたいぼくさんがツイートされててはじめて知って読んだんですけど、最高なんですよ。新体操をやっている女の子の話なんですけど、絵がいい意味でふわっとしているんです。で、そういうところに芯の強いモノローグとかが入るともうダメです。抗えない。webで発表された作品なんですけど今でもブラウザのタブにずっと残してますよ(笑)。新作が最も楽しみな作家さんのひとりです。

音楽:Prefab Sprout『Jordan : The Comeback』

2019年から今に至るまではもう完全にPrefab Sprout。10年以上前に優介がくれたMIXCDRに「Faron Young」が入ってたり、昆虫キッズの高橋くんが遠征の車内で『Steve McQueen』を聴いたりしてたんですけど、その時はわからなかったんです。でも2018年になんとなく『38カラット・コレクション』を買ってようやくちゃんと聴いたんです。そうしたら過去の作品がアナログになる、って知って、それで「Jesse James Bolero」が好きだったから『Jordan : The Comeback』から聴いたんですけど衝撃なんてもんじゃない。2曲目の「Wild Horses」で心を完全に掴まれましたね。

Interview 11
2020
Update! 18th Dec

──いよいよ2020年。今年です。スカートにとって、いや全音楽業界、全世界の人たちにとってもこれほどアップダウンの激しい年はないんですが、とにかく振り返りをしていきましょう。まず、お正月の1月2日と3日、新春の恒例スポーツ番組である「箱根駅伝」中継で、スカートの新曲「駆ける」が流れました。ドラマ仕立ての一分間CM(サッポロビール「第96回箱根駅伝 一緒に、その先へ」)の曲として。

 「あの娘が暮らす街(まであとどれくらい?)」のMVのディレクターさん(林希)が箱根駅伝でのCMを担当されるというので、すっごい急な話としてオファーが来たんです。最初は1分ヴァージョンで作るという話だったんですが、メモで確認したら、(19年の)11月21日の打ち合わせをしたときに「(映像が)いい感じだから3分半くらいのロング・ヴァージョンも作りたい」って言われてますね。映像に合わせて音楽を構成する必要があったから、映像の構成が決まるまでは曲を作れなくって。実際、作曲の作業に充てられたのって2、3日くらいしかなかった。でも、やるしかない、の気持ちでやりました。2日間だけの特別CMとはいえ、十数回は流れたと思います。さすがにうれしかったなー。

──しかし、そんな急ごしらえだったとは。

 ね!(笑) 最初はうまく曲が書けなくて。だけど、資料にもらっていたCM映像の内容も一回すべて忘れたことにして、まっさらな新曲を作るつもりで頭を回転させたら、あれよあれよとあのかたちができてきて、「これじゃないの!」と思える曲になりました。CMヴァージョンのレコーディングは全員のスケジュールが合わなかったからぼくの多重録音でやって、あとで優介にピアノで入ってもらったんです。それで12月7日にスカートの台湾でのライヴがあって、11日にはCM全体の仕上げをした、とメモにはありますね。

──何もないところからCMの完成まで約20日でできた。すごい。

 「駆ける」に関しては、また新しい境地に立てた感じがしてますね。『CALL』のあとにスルッとできた「静かな夜がいい」みたいな関係性に近いのかなと自分では勝手に思ってます。意外とそういう火事場の馬鹿力が作用してきた10年なのかもしれないですね。「ランプトン」も相当時間がないなかで作った曲だし、「高田馬場で乗り換えて」も「トワイライト」もそう。そういう火事場の馬鹿力な曲は、全部僕のなかではいい曲ばっかりなんですよ。素材の味というか、曲さえよければあとはどうにかなる、という気持ちがあるのかな。それで10年やれたのかも。

──1月25日には、テレビ東京の深夜ドラマ『絶メシロード』の主題歌として「鉄塔の影・標識の影」がオンエア開始されました。

 「鉄塔の影・標識の影」のオファーは「駆ける」の前にすでに来ていましたね。録音も早く終わってたんじゃなかったかな?

──10周年イヤーの冒頭を飾る2曲だった「駆ける」「鉄塔の影・標識の影」は、両A面として3月18日にリリースされます。しかし、その頃にはすでに新型コロナウィルスの影響が及びはじめていて。

 遠い昔に思えますよ。いまは違う世界にいる気がします。

──スカートのライヴとしては、2月17日にフィロソフィーのダンスの自主イベント〈Singularity 8〉(渋谷クラブクアトロ)に出演したのが、いったん最後になるんですよね。

 バンドとしてはそれが最後でしたね。異様な光景でしたよ。お客さんのほとんどがマスクをしていて。3月の後半は、シングルのプロモーションもやってましたね。コロナ禍でいろんなことができなくなるギリギリのタイミングでした。京都大阪神戸と回ってて、東京に一度帰って、埼玉のラジオに生出演して、それで福岡に入るというスケジュール。ぼくが東京から離れた2日後には「東京から出るな入るな」って感じに世間はなってきちゃってましたけど、正直「東京にいるよりかは気が楽だったかもね」くらいに思っていた。でも状況はどんどん変わっていきましたし、埼玉のラジオの生出演もなくなって、京都からそのまま福岡に入ったんですよ。そしたら、志村けんさんがなくなったというニュースが流れてきて。

──ああ、報道が出たのが3月30日(死去は29日)。

 知らない街のホテルで状況がどんどん悪くなっていくのをただただ見る、っていうのは本当にしんどかったです。あと、その頃は、『アナザー・ストーリー』を仕上げる段階でもあったんですよ。歌録りが数曲と、管楽器の録音とコーラス録りがちょっとずつ残ってた。だいたいのミックスの日程とかもおさえてあったし。でも、それも一回全部止まっちゃいました。

──4月11日には日本橋三井ホールでのスカート10周年記念ライヴ〈真説・月光密造の夜〉が予定されていましたが、結局、4月7日から緊急事態宣言が出て、ライヴどころか普通の外出自体がままならなくなって、延期にせざるをえなくなりましたよね。それでその夜に自宅からYouTubeで自宅での弾き語りを〈在宅・月光密造の夜〉として配信して。あのアイデアはどこから?

 志村さんの件もあって、コロナに対して「これはもう歌でも歌ってないと気が狂う」という感じになってたんです。それで、福岡でやった生出演のプロモーション全部でギター弾き語りをやりました。その「歌でも歌ってないと気が狂う」という気持ちがずっと残ってたこともあり、4月11日のライヴもできなくなっちゃったから、せめて在宅で弾き語り配信ができないものかと考えて会社に相談してしました。

──〈在宅・月光密造の夜〉は最初から〈Vol.1〉とついていましたよね。最初から連続でやる予定だった?

 この状況は長く続くだろうからシリーズでやろうと思ってましたよ。社会のなかで機能してる感じというか、これだったらいまやる意味があるかなと思ったんですよ。

──さらに、その自宅ライヴの音源をBandcampで販売してゆく(ギターコード譜がダウンロード特典)というアイデアもすごくよかった。

 この〈在宅〉を4回やって、バンドでスタジオ・ライヴを〈仮説・月光密造の夜〉(『仮説・月光密造の夜 2020.07.12 @PONY CANYON YOYOGI STUDIO』として8月2日に無料配信)を経て、9月5日に延期された三井ホールでの〈真説・月光密造の夜〉につながってゆくイメージでした。間に〈仮説〉を挟んだのは、2月以降一本もバンドでライヴをやってなかったから、リハビリじゃないけど思い出しておこうという感じでしたね。

──あの縦長のスタジオでの映像、構図がおもしろかったですね。ディスタンスを保ってるというアピールにも感じたし。

 あの日、5ヶ月ぶりにメンバーと音を出して、本当に久しぶりだったし、楽しかったですね。ただ、あのときはみんなでヘッドホンしながらやるライヴだったし、「いろんなかたちに順応していかなきゃな」という思いを試したうちのひとつですね。

──そして9月、〈真説・月光密造の夜〉は、観客数をキャパの半分以下に限定して、1日2回公演で開催されました。

 これがねー。本当に楽しかったし、最高の気持ちになったんですけど、そこでようやく「もはやライヴをやるってこと自体がちょっとした自傷行為というか、傷口を見ることなんだな」とわかったんです。「ああ、そうか、しばらくは前みたいにできないんだな」という事実を、よりはっきりと突きつけられた。今年スカートとしてやった3つのライヴ(〈在宅〉〈仮説〉〈真説〉)は、全部に思い入れもあるんだけど、ある意味、「全部その場しのぎだったんだ!」みたいな気持ちになっちゃった。本当はそんなことないんですけどね。「久しぶりにできた、やった!」って気分に単純になれたらどんなによかったかなと思えて、10月くらいまで結構落ち込みましたね。そもそも、コロナ禍がなければ、本当は夏に『アナザー・ストーリー』を出して、年末にEPとか出したい、配信で1曲でもいいから“これからのスカート”を感じられる曲を出したい、みたいなスケジュールを話してたんですよ。

──10周年記念ライヴも4月の三井ホールを皮切りにいろいろ予定されていたんですよね。アルバムが予定通り夏に出ていたらツアーもあっただろうし。

 今年の頭くらいに思い描いてたスカートに戻りたい、とは思うんですけどね。戻れないんだろうな。じっさい、コロナ禍以降、曲もまったく書けなくなっちゃったし。特に4、5、6月くらいは、何か特別なものを作んなくちゃいけないんじゃないかという思いに絡め取られちゃって、黙らざるを得なくなったというのはあります。まあでも、「すごいのきちゃったね」は全員そうですからね。とにかくぼくは精神的にはくらっちゃいましたけど、それで音楽聴けなくなった、とはならなかった。それが本当によかったです。

──本当にね。

 コロナ禍でリモート収録になりながらも『NICE POP RADIO』をずっとやってたというのが、本当に支えになりましたね。その反面、一時期、漫画を読めなくなってましたけど。なんかね、それこそ2015年ぐらいに物語が頭に入ってくるのが怖いって時期があったんですよ。あの頃の感じがちょっと戻ってきちゃった。まだその後遺症はあるんですけど、いまはまた読めるようになりました。

──2021年に向けて、最近はどんなこと考えてますか?

 いまは新しいアルバムが出るから忙しいし、人にも会うし、なんとか気持ちがつながってる気がする。この調子で国内だけでもコロナが落ち着いたらいいなと思ってたんですがね、どうもまだダメそうですけど(笑)。でも、「曲を書かなくちゃな」とようやく思うようになってきました。あと、最近は、インスタライヴをリハビリと称してやってるんですよ。4月にやってた〈在宅〉は、まだライヴの所作が自分のなかで残ってたんですよ。でも、いまは「何日の何時にやります」って告知するんじゃなくて、ふっと思いついたときに、どの曲やるかも決めずに「間違えたらごめんなさいね」くらいの感じからはじめてます(笑)

──あらためて思いますけど、そんな2020年に、自分の過去曲を再録音してゆく『アナザー・ストーリー』を作っていたというのは不思議な感覚だったでしょう?

 タイムマシーンというか、パラレルワールドというか。

 そうそうそう! 制作は楽しかったですよ。これがあったからギリギリ正気でいれたのかも(笑)

──『アナザー・ストーリー』は2020年の澤部渡自身にとって救いになった作品でもある。

 「なんだよ、懐古主義みたいなことやっちゃって」みたいな意見が出てくるのは織り込み済みだし、そうだとしてもこのアルバムが曲で批判されることはないと思ってます。そういう意味で、クオリティに対して気楽でいられたのは助かったなー。とにかく全部いい曲ですからね(笑)

(おわり、いや、つづく)

《澤部渡が選ぶ2020年の漫画と音楽》

漫画:藤本タツキ『チェンソーマン』

『チェンソーマン』はなんとなくTwitterのタイムラインがざわついていて気になったんです。今まで挙げた漫画を見てもらえばわかってもらえると思うんですけど、少年漫画から距離を取って大人になってるんです。それが32歳にしてジャンプコミックスを買うとは(笑)。でも果たしてこれって少年漫画なんでしょうか(笑)。アフタヌーンとかIKKIとかビームの匂いがするんです。とにかく状況の説明がほとんどなくて、物語が目の前を猛スピードで走り去っていく。こういう「置いていかれる」感覚って自分のなかで重要で、10代の頃に大島弓子さんや高野文子さんの漫画読んだ時のそれに近い気がするんですよね。

音楽:V.A.『21世紀のこどもの歌』

今年は印象に残った音楽が多すぎるんです。まず、ずーっとプリファブ聴いていましたね。でも一方で田中ヤコブくんの『おさきにどうぞ』とか、ayU tokiOとSaToAの『みらべる』とか、mei eharaさんの『Ampersands』とか周りのミュージシャンが新しいレコードをリリースしてくれた、っていうのは本当に励みになりました。でもひとつ、となると『21世紀のこどもの歌』かも。KBSラジオの『レコ室からこんにちは』という番組で松永さんが選んでいて「宇宙都市の夕ぐれ」をはじめて聴いたんですけど、ちょうどその時、車に乗っていて、夕ぐれ時だったんですよね。家に帰るために西へと向かっていて。あの夕ぐれ!あれはちょっとすごい体験でしたね。その後なんとか手に入れて聴いていたんですけど、すごく染み入った。タイトルが表すとおり、未来のこどもを描いた歌がぎっしり詰まっているんですけど、やっぱり現実から目を背けたかったのかもしれない。


『アナザー・ストーリー』インタビュー・アウトロ

松永良平

 スカートのライヴを最初に見たのはいつだったろう。曲を最初に聴いたのは、ココナッツディスク吉祥寺店のブログで紹介されていた「ハル」のMVで間違いない。でも、ライヴは?
 このインタビューをまとめていた11週間、ずっとそのことを考えていて、ひとつ思い出したのは初めてのライヴじゃない。2012年4月のライヴで、しかも意外な場所だった。  正解は、東高円寺の名物ラーメン屋、満州王の2階。その日、東高円寺エリアで小規模なサーキットイベント(〈東京BOREDOM in E.K.!!!!!〉)が行われていて、その日にスカートが弾き語りで出ることを知った。
 満州王の裏手にある階段を上った畳敷の和室は、10人も入ればいっぱいになる狭さだった。そう、そこはライヴスペースでもなんでもなく「部屋じゃん!」状態だった。  その部屋でスカートがやった曲は……ほとんど思い出せないんだけど、ラーメン屋の上での演奏ということで、細野晴臣「北京ダック」をカヴァーしたことはなぜか覚えている。あとにも先にもあのとき一回きりしか見たことがない“澤部・シングス・細野”だった。 
 『ストーリー』リリース前後のスカートを見ていたころ、「こいつは将来大きくなる!」と感じてたわけじゃなかった、とは思う。ただ、とにかくいい曲ばっかりで、この人はずっと音楽が大好きなまま音楽をやっていくんだろうな、と信じられる部分があった。

 デビュー曲、あるいは初期のレパートリーをずっとやっているタイプのバンドやシンガーがいる。それが代表曲であったり、完成度の高い曲だったりする人は幸運だという見方もあるかもしれない。もしかしたら、人によってはそれはウケ狙いの迎合や「あの頃はよかった」というノスタルジーに属する行為なのかもしれない。
 だけど、若く新鮮な感性と肉体で自分が生み出した、原石にしてある意味宝石のような楽曲と現在の自分で対峙するというハードさが、必ずそこにあるということも忘れずにいたい。「いまのおまえはどうなの?」と手を伸ばしてくるかつての自分。それは甘やかな記憶に触れてくるけど地獄の使者による呪縛かもしれないんだから。
 なにが言いたいのかというと、スカート=澤部渡は、そんな自分の過去の記憶や音楽とすごく誠実に向き合ってきたんだなってこと。『アナザー・ストーリー』に収められた16曲が、そのことを証明してる。抱えきれない過去として重荷に思うでもなく、ここで捨て去って自己を更新しようということでもない。いまも至極当然のようにライヴのあちこちに散りばめられたスカートの過去曲は、スカートの現在を組み立てる建材としてぜったいに欠かせない。この名曲群をこの先のスカートと一緒に持っていくためのリノベーション。
 それに、心の底から自分の過去を愛しながら、ポップ・リスナーとして誠実な耳の要求することを忘れずにいられるのは、やっぱり大きな才能だと思う。アナザーをトゥルーにできるっていうか。

 このロング・インタビューを最初に行ったのは2020年の3月。当初は4月に開催予定だった日本橋三井ホールでの〈真説・月光密造の夜〉での来場特典として、冊子で配布されるはずだった。
 しかし、新型コロナウィルスの感染拡大による緊急事態宣言で、ライヴは延期。インタビューもいったん宙に浮いた。
 その後、9月に行われた〈真説・月光密造の夜〉の楽屋で、角張くんから12月発売の『アナザー・ストーリー』に合わせて一年ごとにインタビューを公開するのはどうかという提案を受けた。2010年から2020年まで全11回。こちらとしても望むところで、内容を強化するためにその後、澤部くんとは2時間x3回のインタビュー(近所のジョナサンで3回、Skypeで1回)を行った。
 4月に配布するつもりだったパンフでは構成やデザインなどいろんなアイデアを考えていたし、この連続インタビューだって写真や漏れたエピソードを加えていつか冊子にしたらいいんじゃないかと思っている。そのときはアナザーの次の「トゥルー・ストーリー」でお願いします!

Movie

Profile

どこか影を持ちながらも清涼感のあるソングライティングとバンドアンサンブルで職業・性別・年齢を問わず評判を集める不健康ポップバンド。強度のあるポップスを提示し、観客を強く惹き付けるエモーショナルなライヴ・パフォーマンスに定評がある。2006年、澤部渡のソロプロジェクトとして多重録音によるレコーディングを中心に活動を開始。2010年、自身のレーベル、カチュカ・サウンズを立ち上げ、1stアルバム『エス・オー・エス』をリリースした事により活動を本格化。これまでカチュカ・サウンズから4枚のアルバムを発表し、2014年にはカクバリズムへ移籍。アルバム『CALL』(2016年)が全国各地で大絶賛を浴びた。そして、2017年10月にはメジャー1stアルバム『20/20』を発表。昨年にはメジャー1stシングルとしてリリースした「遠い春」が映画「高崎グラフィティ。」の主題歌、カップリング「忘却のサチコ」が高畑充希主演のドラマ「忘却のサチコ」のオープニングテーマに起用された。そして、2019年にリリースした最新シングル「君がいるなら」には大泉洋主演映画「そらのレストラン」に書き下ろした主題歌と挿入歌を収録。また、そのソングライティングセンスからこれまで藤井隆、Kaede(Neggico)などへの楽曲提供、ドラマ・映画の劇伴制作に携わる。更にマルチプレイヤーとしてスピッツや鈴木慶一のレコーディングに参加するなど、多彩な才能、ジャンルレスに注目が集まる素敵なシンガーソングライターであり、バンドである。
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